昔 東京の片隅で 第10話

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昔 東京の片隅で 第10話

               ■  都会に住む多くの人々はいつしか、大切にしていたもの、輝いていたものを失くしてしまいした。  目まぐるしく変化する社会。日々の生活に追われる毎日。  そんな渦中にいると人々は、自分が大切にしていたもの、輝いていたものを、いつしか失くなっていることに気づくのです。  その失くしたもの、輝いていたもの。  それらは実は、福島県の吾妻連峰にある龍神の泉で密かに眠っているのです。                ■  高校生のタクはその話を『謎大陸』という雑誌で知ったとき、自分が失くしたものが、そこにあるに違いないと思いました。  毎日が光り輝いていた日々。感動の連続、そして新しい発見の毎日。  でも長い高校生活の中でそれらはいつしか、消え去ってしまっていたのです。  その消え去っていたもの、輝いていたものが龍神の泉にあるとしたら。  そこで眠っているとしたら。  そうだ。ぼくは龍神の泉に行こう。龍神の泉に泉に行って、失くしたものを取り戻そう。                ■  その夏。タクはひとりで東北本線に乗り、福島駅で下車しました。  そのあとバスに揺られて、ある登山道の入口に降り立ちます。  その登山道を二時間近く登ると、やがて前方に大きな岩が見えてきました。  雑誌にはその岩陰にある獣道(けものみち)をたどって行くと龍神の泉に出られる、と書いてあります。  タクはためらわず草木を分けて、その獣道に入りました。  見上げると真夏の空には、真っ白な雲が浮かんでいます。  その雲は徐々に姿を変えながら、東に流れて行きます。  ぼくの失くしたものも、あの雲のように、どんどん姿を変えて、やがて消えて行ってしまったんだ。  だけどその失くしたものが龍神の泉にあるのだとしたら、ぼくはそれを取り戻さなくちゃならない。  タクは自分にそう言い聞かせて、獣道を歩きました。  流れる汗を拭きながら、ときどき水分を補給しながら、そうしてタクは黙々と獣道を歩くのでした。                ■  それからずいぶん歩いたでしょうか。  やがて勾配がきつかった獣道は、平坦な道になりました。  そこから先は、周りの樹木が途切れています。  タクが目を凝らすとその先には、原生林に囲まれた神秘的な泉が広がっていました。  タクはその泉の美しさに目を奪われ、しばしそこに立ち尽くしていました。  ここだ。ここが『謎大陸』という雑誌に載っていた龍神の泉だ。  ぼくはやっと、この龍神の泉にたどり着いたんだ。  この泉のどこかに、ぼくが失くしたものがあるに違いない。  タクは感動で胸がいっぱいになり、目に涙さえ浮かべてしまいました。                ■  タクは龍神の泉のほとりで、しばし休憩しています。  すると泉の反対側から突然、修験者のような白衣をまとった老人が現れて、タクを驚かせました。  その老人は白髪を長く伸ばし、さらにヤギのような長くて白いヒゲまで生やしています。  タクは言葉を失い、その老人を見つめました。  その老人も最初はタクに驚いた素振りを見せましたが、相手が高校生くらいの男の子だと気づくと、笑顔を見せて声をかけてきました。  そこにいるキミ。キミはそこで何をしておるんじゃね。  タクが答えます。  ぼくはタクと言います。東京に住んでいる高校三年生です。  タクは簡単に自己紹介してから、ここに来たわけを話しました。  都会の暮らしで、いつの間にか失くしたもの。  それがこの龍神の泉に集められて眠っているという話を、『謎大陸』という雑誌で知りました。  ぼくはその失くしたものを取り戻したくて、ここにやって来たんです。  おじいさんはもしかして、この龍神の泉の神主さんですか。  もしそうなら、どうかぼくのお願いを訊いてください。  叶えてください。                ■  老人はしばし考えていました。  そして言いました。  そうじゃ。わしがこの龍神の泉の神主じゃ。  おまえが捜しているものは、確かにここに眠っておる。  今、持ってきてしんぜよう。少しここで待っておるのじゃ。  老人はそう言って、龍神の泉の奥の原生林に姿を消しました。  龍神の泉は、静寂に包まれました。  空気は少しひんやりして、それがタクの心を引き締めました。                ■  やがて老人が、原生林の中から戻ってきました。  そして手にしていた水晶玉をタクに渡し、言いました。  ほれ。これがおまえが失くしたものを閉じ込めておる水晶玉じゃ。  これを持ってお帰り。そうするとおまえに、きっといいことが起きるじゃろう。  タクの顔に、喜びが広がりました。  そうしてタクはその水晶玉を受け取り、何度もお礼の言葉を述べて、龍神の泉をあとにするのでした。                ■  東京に帰る東北本線の中でタクは、リュックから水晶玉を取り出し、それを大事そうに抱きしめました。  タクの失くしたもの。それは、つのだ☆ひろに憧れて、プロのドラム奏者になるという夢でした。  小学生だったタクは初めて、つのだ☆ひろが歌うメリージェーンを聴いたとき、全身に電流が走るような衝撃を覚えたのです。  そしてその電流がタクに、プロのドラム奏者になるという夢を植え付けたのでした。  でも中学生になり、高校生にもなるとタクは、日々の生活に流されてしまい、いつしかプロのドラム奏者になるという夢は消えてしまったのでした。                ■  タクは東北本線を走る列車の窓から、西の空を眺めました。  すると福島県に横たわる奥羽山脈の陰に、ちょうど太陽が沈むのが見えました。  やがて西の空にはそれに代わるかのように、明るい星が輝き始めます。  それを眺めながらタクは、思いました。  ぼくは龍神の泉で、失くした夢を取り戻したんだ。  今度こそぼくは、プロのドラム奏者に夢を失くさないぞ。  そしてぼくは将来、つのだ☆ひろさんのように、人を感動させるドラム奏者になるんだ。                ■  その頃、龍神の泉では、神主と名乗った老人にカメラマンが声をかけていました。  しかし編集長。あの創作記事の続報に写真を載せようとしてここに来たら、それを信じた高校生がやって来るとは、思いも寄りませんでしたね。  編集長、と呼ばれた老人は白い長髪のカツラを脱ぎ、さらにヤギのような付けヒゲを剥がしながら、カメラマンに言いました。  オレも最初はビックリしたよ。でも彼の真剣な目を見ていたら、あの記事はウソ記事で、創作だなんて、言える雰囲気じゃなかったよ。  だからオレは咄嗟(とっさ)に、撮影用に持ってきたガラス玉を思い出して、それでひと芝居打つことにしたんだ。  カメラマンは(うなず)きながら、言いました。  あの高校生。それを失くしたものだと思い込んで、帰って行きましたね。  編集長はカメラマンに笑顔を向けて、  それでいいんじゃないかな。オレたちは夢を売る仕事をしてるんだから。  そして言葉を続けました。  さあ、オレたちもそろそろ下山しようか。今夜は麓ふもと》の温泉でゆっくりして、ビールで乾杯でもしようじゃないか。                ■  オカルト雑誌『謎大陸』の編集長とカメラマンが下山すると龍神の泉は夕陽に染まり、やがて龍神の泉周辺は緞帳(どんちょう)が降りたような漆黒に包まれました。  そしてその夜空には、たくさんの星が輝き出しました。  しかし編集長もカメラマンも、そして高校生のタクも知らなかったのです。  その夜空を覆いつくすような満天の星たち。  実はその満天の星たちが、都会に住む人々の失くしてしまったもの、光り輝いていたもののすべてだったのです。  そしてその星たちは今宵(こよい)も、多くの人々が思い出してくれるのを待ちながら、夜空に輝いているのでした。                                 《了》  
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