あぶく

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あぶく

朧げに思い出すドラマがある。恋人が、出演している俳優のひとりが好きだ、推しなんだ、と言って目を輝かせて観ていたのを思い出す。 僕はあまりドラマが好きではなかった。でも、恋人のそんな可愛げな表情を見せられては、チャンネル権を奪うことなんて出来ない。 そのドラマでは、人生には三つの坂がある、と語っていた。 上り坂、下り坂、まさか 「お腹空いているでしょ。なにか食べていく?」 久しく眺める恋人の横顔は、刑期を終えた僕の脳みそに深く刻み込まれる。無理をして微笑みかけられているのだと理解した。それが僕にとってのまさかだった。 どこで道を踏み外したのか、どこでひずんだのか、僕たちの関係性が壊れたのはいつなのかと、答えが出ているものを弄くりまわす感覚に陥る。 かち、かち、ウインカーが彼女の心臓の鼓動のように車内に反響していく。 車の外は雨だった。刑期を終えたとき、どんな空が僕を待っているのだろうかと想像を膨らましていたけれど、出てみれば案外、なにも変わっていなかった。刑務所に入ったときと変わらない。 変わったのは、愛しの恋人、真希だった。 彼女を形成するすべてが変わっていた。 「真希ちゃん、迎えに来てくれただけで嬉しいから、そこまでしなくていいよ」 「そんな可愛げのないこと言わないの。私の知っている那智くんは、いつだって私に甘えていたはず」 ふふ、っと運転席でハンドルを握る真希は微笑んだ。その笑みはどこか歪んでいて、心の底から笑っているものだとは思えなかった。 真希は嘘をついている。僕にも自分にも。 僕を支えなければならない、という使命感だけで、そのハンドルをキツく握りしめているんだろう。ここにもう恋心というのは無い。それだけが理解出来る。 僕にとって真希と出逢えたことは上り坂だった。刑務所に入ったことは下り坂だった。 たしかに、人生には三つの坂がある。 刑務所の中で描いた、支えにしていた真希がこんなにも変わってしまったというのは想像していなかった。 有名なチェーン店のラーメン屋に車が入っていく。僕が刑務所に入る前から有名だった場所。彼女なりの優しさなのだろう。数年、刑務所にいた人間への気遣い。 「ここなら那智くんもなにか食べたいものあるでしょ? 腹ごしらえして家に帰ろう。あ! 買い物にも行かないといけないね。洋服とか買わないと」 「……真希」 「なに? ラーメンじゃイヤ?」 嘘に種類があるのだとしたら、真希のつくそれはどれに分類されるのだろうか。ときに優しい嘘ほど、残酷なものはない。 無意識のうちにつかれる嘘はもっと残酷で、息苦しい。 嘘をついたのは僕が先だ。 世間を騙した僕への罰がこれなのだとしたら、謹んで受け入れよう。 「ラーメンがいい」 簡単に食べて、さよならをしなければならない。
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