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人の幸福を見ると、元気をもらえると言うが、本当にそうだろうか?よく綺麗事を言う者がそういうことを言い、却ってそういう者に限って人の不幸を見ると、元気をもらえるんじゃないだろうか。本来、人の幸福を見ると、羨ましくなるか妬み、また、人の不幸を見ると、不憫に思うか同情するのが人情というものであろうが・・・
そう言えば、相撲界では勝った力士は土俵上で喜びを表さないのが美徳とされているが、それは敗者が勝者の喜ぶ姿を見ると、不快になるからで、そうさせない為に勝者は敗者を思いやるのである。が、それは過去の事で相撲界同様廃れつつあるが、メジャーリーグにもそういう善き習わしがあった。逆に敗者を思いやれない勝者は、喜ぶ姿を遠慮なく見せつけて敗者を不快にさせるに違いない。
こういうタイプこそが人の幸福を見ると、甚だ不快になるにも拘らず人の幸福を見ると、元気をもらえると言うように思うが、それは体裁を整える為、取りも直さず度量が大きいのを装って嘘をついているに違いない。
卑近な例を挙げれば、顔の醜い奴が顔の可愛い奴を見て元気になれると思うか?劣等感に苛まれるのが理の当然だろう。でも、可愛い~とうっとりして元気をもらえるというパターンもあるか、ま、そんな風に日陰者には日陰者の幸せがあるし、世間を大手を振って歩ける奴には味わえない幸せもある訳で一概に日陰者が不幸とは言えないのだけど、何せ顔が悪いだけでなく何の取り柄もなくて天職が見つからずプー太郎になり、今や生活困窮者だから笑顔が人を明るくすると言われてもねえ、笑顔を見たところで食い扶持になる訳じゃなし・・・そもそも笑顔を差し向けてくれる者がいないし、取り敢えずお恵みが欲しいんだが、そんな所へ持って来て人の為にお金を使うことは良いことだと言う者がいるもので、人の為と言えば、聞こえは良いが、見返りが期待できる身内や仲間内の人に対してのみ言っているのであって決してホームレスを始め生活に困っている人の為にお金を使うことはないのだ。嗚呼・・・と絶望して自殺の名所、青木ヶ原へと行く仕儀になってしまった松村は、本栖湖辺りまで来たは良いが、夜更けだったこともあって方角を間違えて139号線を南の方へ闇雲に歩いて行き、猪之頭入口交差点に差し掛かると、富士山信仰の神聖なエリアに誘われるように75号線に移って行き、冥々の裡に鳥居の前にやって来た。暗闇の中、鳥居の向こうの林の上に紗のような霞が掛かって仄白く光る物がぽっかり浮いている。紛れもなく偃月の朧な月光に照らされた霊峰富士の白銀だ。
松村は人穴浅間神社の境内に入るとも知らずに樹海の入り口だと思って鳥居を潜ってまっすぐ歩いて行った。道端に生える木の枝分かれして暗闇に広がった梢がまだ春なので瘦せていてなよなよと弱々しく道に向かって垂れているのが月明かりに光って不気味な感を抱かせる。道の突き当りに人穴浄土門の碑があり、その手前で松村は左にふらついて其の儘、左の道を林に向かって歩いて行った。林の中にも真っすぐ道が通っていて人穴冨士講遺跡の碑塔や石造物が墓石のように道端に立っていたりして益々不気味になった松村は、いつの間にか石段になった林道を上がって行くと、本当に墓碑が両脇に立ち並ぶところまで上がって来て背筋に冷たいものが走った。そして人穴浅間神社拝殿前の墓碑や供養碑や祈願奉納碑が林立する所にやって来て俺は一体、何処へ来てしまったんだとやっと樹海じゃないことに気づいた。賽銭箱の上で注連縄に付けられた紙垂が風に煽られ白装束の孺子みたいに動くのがまた不気味だ。社殿の右横前には溶岩洞窟である人穴がある。勿論、松村は知らない。人穴に入るにはその手前の石段を下り、石段に踏み入るには玉垣の間を通ることになるが、その入り口の両脇、つまり玉垣の手前には春日灯篭が一つずつ立っている。その火袋に面妖なことがあるもので突然、ぼっと灯が点ったのだから松村はおっ魂気て肝を冷やしたの潰したのと言ったらなかった。腰が抜けて尻もちをつくと、なんと玉垣の間から人影がぬうっと現れた。石段を登って来るのだから頭からだ。
松村は腰が抜けた儘、ひえ~!と悲鳴を上げ、全身総毛立ってぶるぶる震え上がりながら後退りした。で、松村の前に現れ出たのは巫女のような恰好をした神秘的で眉目秀麗な妙齢の女だった。両脇の燐火に照らされ、ミルクのような乳白色の柔肌は青白く輝き、腰まで垂れた長い黒髪は烏の濡れ羽色に輝いている。
「こんな夜半にここへ来られたのはあなたが初めてです。よくぞ来られました」
心に優しく染み入るような澄み切った恐ろしく綺麗な声だった。
「私は神代に於いてお隠れになってお身体が腐敗した伊邪那美命を美しく蘇らせた八雷神の一人で造顔術の元祖、大雷の後胤です。ですからどんな醜いお顔でも美しく作り替えることが出来るのです。私の上古の御先祖様は天下を治め司る御方についてそれこそ華々しい表舞台でやんごとなき方たちのお顔を直して活躍していたのですが、いつの世でも戦ばかりする人間に施しをすることに嫌気が差して到頭、あの長きに亘って続いた応仁の乱の最中、御先祖様は駿河へ下向し、この人穴に潜伏隠棲し、爾来、能面ばかり作るようになったのです。私もそのようにしていたのですが、腕が鳴ってうずうずしておりましたところへ勇気あるあなたのお出ましとあっては施さずにはいられません。誠に失礼ですが、あなた、お顔に悩んでここに来られたのでしょ。さあ」と女は救いの手を差し伸べるように手を差し出した。
こんな所でこんな時間に得体の知れない女に邂逅して突拍子もない訳の分からないことを言われ、何なんだこいつは!何者なんだ!と驚嘆しながらも死ぬつもりで来ていた松村は、失うものは何もなく、こんな美しい女の手引きとあっては縋らない訳には行かなくなって女の手を握ると、何とも暖かく柔らかい手触りを覚え、それだけで何もかも任せて良いと思うのだった。
二人は火袋から飛んで来た燐火に咫尺を弁ぜぬ人穴を照らしてもらいながら天井が低いので前屈みになって進んで行き、50メートル位進んだところで女が呪文を唱えると、岩壁の一部がゴリゴリと音を立てながら引き戸みたいに横に開いた。見ると、岩をどう掘ったものか、人穴より天井が高い6畳間ほどの作業部屋が現れた。中へ入ってみると、岩の扉が自動的に締まり人穴と違って冷たい風が入って来ないから室内は結構温かい。円鏡の他、翁系、女系、男系、尉系、怨霊系、鬼神系など多種多様な能面が岩壁一面に掛かっていて鑿で掘ったものか、岩壁の一部に龕が刳り抜かれていて仏像が発光体となって中を照らしている。お陰で岩壁は金泥銀泥で塗りたくられたように光っている。彫刻台には鑿と槌が置いてあり木屑がその周りに散乱し、台の周りにも散乱している。作業部屋の奥には縄文杉の一枚板で出来た、ドア付きの壁があり、ドアを開けると、そこが複数の獣油ランプで照らされた造顔手術室なのであった。寝台の傍の岩棚に骨鑿や骨パンチや骨剪刀や匙や剥離子やロンジュールなど整形外科用鋼製器具が置かれ、麻酔液とヒアルロン酸を注入する注射器、それに謎の粉薬と水薬がそれぞれ入った瓶も置いてある。
「久しぶりですけど能面作りを続けていますから腕は全く鈍っていません。従って何も心配いりません。何しろ手前味噌ながら神業ですから」
「能面は何の為に作ってるんですか?」
「ですから腕を錆び付かせない為、そして先祖代々脈々と継承されて来た神業を神業の儘、後胤に伝承する為です」
「後胤って子孫のことですよねえ」
「はい」
「子孫となる子供はいるんですか?」
「今はいません」
「じゃあ、どうやって作るんですか?」
「私にとってあなたが来られたのは究竟。その意味でくっきょうな若者を待っておりました」と女は言うと、曰くありげにニヤッと笑った。その気色に松村はどきっとして色めいて、「えっ!まさか、僕?」
「そうです。私好みのいい男にして差し上げますから」
「と、と、ということは、つまり僕と・・・」
「ふふふ、そうです。この奥に寝室が用意してありますから。ふふふ」
女は然も嬉しそうに艶な嬌笑を浮かべたのだった。
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