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ふれた腕をそっと撫でてみる。
彼はぎくりと固まって、それからぐっとこらえる様に体に力を入れたように見えました。
勝手に撫でたことを咎められるかと思いましたがそれはありませんでした。
腕の先は無かったけれど、私の旦那様になるであろう人の腕は温かくて、撫でていると少しだけ力を抜いた気配がした。
「綾さんでしたね、戸田義直と申します。
この通り、日常生活に支障がありますがよろしくお願いします」
その声には言霊が込められていなかったのはすぐに分かりました。
けれど、私にはそれはどちらでもよかった。
彼の腕から手を放して一歩後ずさる。それから深々と頭を下げました。
言葉の話せない私ができる挨拶でも、旦那様は笑顔を浮かべてくださった。
「荷物は……」
そう言いながら私の持っている風呂敷包みを見た。
見送りも無く言葉も話せない私に何か思う事もあるだろうに、彼は何も言わない。
「部屋に運びますね」
そう言いながらひょいと私の手元から風呂敷包みを受け取る。
「左手は無事ですから」
屋敷を案内しますねと言いながら旦那様、義直さんは奥に入っていく。
慌てて草履を脱いで後を追いました。
「ここまではお一人で?」
振り返りながら義直さんが言う。
頷くと、「迎えを出した方がよかったですね」と言った。
「通いの女中が一人います。
炊事場と家事の事は明日彼女に聞いてください」
彼は一部屋ずつ説明しながら屋敷を奥へと進んでいく。
ここでこれから暮らすのかと私がきょろきょろしていると、義直さんは「どの部屋も好きに使ってください」と言った。
よく話す人だ。言霊使いとしては珍しい人なのかもしれない。
「僕は昼間は大体この部屋にいますから」
奥の部屋のふすまを義直さんが開けた。
中から、ものすごく濃密な墨の匂いがする。
ちらりと覗いた部屋の中は、びっしりと紙が敷き詰められたようになっている。
そこに描かれているのは全て文字だ。
文字、文字、文字。
真っ黒な墨で書かれた文字が部屋一面に広がっている。
それで、この人が私の思っている言霊使いと少し違う事にようやく気が付きました。
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