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きっかけ
チャイムが鳴った。
「夕刊です」
続いて張りのある声が耳に届くと、里保子は時計に向けていた視線をゆっくりと窓の外に送った。
俯きがちに立っている帽子の人物が、里保子の目をガラス越しに遠く見つけて元気よく会釈する。人懐っこさそうな目が細められ、綺麗な並びの歯が太陽の光に白く輝いた。
「暑いですね。今日は」
「うん。暑いね」
出迎えた里保子に、配達の女性が新聞を手渡す。手の甲に光る汗が里保子の腕に一滴落ちると、女性は慌てて手を引っ込めた。
「あ、すみません。汗が」
「タオル持ってこようか」
「いや……」
遠慮に渋ったような表情の女性のこめかみをまた汗が伝う。里保子にじっと見つめられて気まずそうに瞳を伏せる女性を、里保子は目を細めて眺めていた。
「上がっていけば」
「え?」
「シャワー、浴びていけば。すごい汗だよ」
「でも」
「お茶もあるよ。あとアイスも。あ、時間ない?」
子どもの気を引くような里保子の誘いに、女性がふっと笑った。
「実はお家周りはこちらで最後なんです。お言葉に甘えてもいいですか」
「どうぞどうぞ」
玄関の扉を開き、中に女性を入れる。
夕刊をダイニングテーブルに置き、そのままシャワーの温度調節のボタンを押す。
帽子を取り、汗が落ちるのを気にして落ち着かない様子の女性を振り返った。名前は何だったか。たしか、最初の配達の日に聞いたような。
飾り気のない短髪がよく似合うけれど、子どもっぽいというわけではなく、シャープな輪郭に意志のある少し吊り目の瞳がよく映える。覇気のある若さが里保子の目には新鮮に映った。
「加藤さん、だったっけ」
「加藤玲子です。スミマセン、申し遅れました」
「玲子さんね。いくつ?」
「二十六です」
「若いね。私、筒路里保子。三十五歳」
簡潔な自己紹介をしつつ、玲子を脱衣所に案内する。男性平均よりも数センチ低い身長の夫を見慣れる里保子にとって、手足が長く、優に百七十を越えそうな若い女性が家にいることは、なんとなく不思議な感じがした。
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