一章「水無月葬送曲」

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一章「水無月葬送曲」

 溝浦(みぞうら)製作所の事務所は、ひどく暑かった。  冷房の風を嫌う社長によってクーラーが沈黙させられているのが原因だが、それに抗議しようという者は、ただの一人もいない。  粘度を増した空気。微かに動かした指先に絡みつく不快な抵抗は、しかし、気温だけのせいだとは思えなかった。 「在原(ありはら)ぁ、お前、本当にいいのかよ?」  気のせいか、いつもより低い酒に焼けた社長の声。  色の黒い、深い彫りの奥に潜んだ大きな目玉が二つ、僕をギョロリと睨みつけている。  薄手のポロシャツの裾から伸びる二の腕は僕の倍は太く、そこに座っているだけなのに、まるで押さえ込まれているような圧迫感が僕の胸元を締め付けている。  この事務所は日当たりのいい南向きにある。  唸りを上げる作業機械の駆動音とともにやさしい光が差し込んできて、昼休みになれば、従業員たちの下らない談笑があちこちに転がるだろう。  僕だって、今こうしていなければそのうちの一人だったのだ。  しかし、そこで僕らは向かい合っている。  挟むのはあちこちがへこんだ事務机一つ。こぎれいに整頓されたそのてっぺんに一枚の封筒。  それはその厚みからは想像もつかないような質量を持って、ぴたりと張り付いている。 「いいんです」もごもごと口の中で、潰れる言葉。「もう決めたことですから」 「もう決めた、ってよ。俺にゃお前が自棄を起こしてるようにしか見えねぇんだ」 「自棄なんかじゃありません」 「いいや、お前さんはやけっぱちになってるよ。そもそも、お前さんがここを辞めてどうなるってんだよ」  ぱきん。  プラスチックの割れるような音、社長が指を鳴らしたのだ。  彼が大きな音を発てて関節を鳴らすのは、決まって機嫌が悪いときだった。  ――この恩知らずが。  僕の鼓膜には、その節くれだった拳から聞こえてくる軽い音が、そう聞こえてならないのだ。 「どうにもなりません。でも、もうここには居られないんです」  ぞわ、と。  胃の奥が冷たくなる感覚があった。それは血管を伝って、四肢の末端まで染みていく。  取り返しのつかないことをしている。その実感が、心に僅かな浮遊感をもたらしていた。  それでも、言わなければならなかった。我慢していることはできなかった。 「ここにいると、僕は勘違いする。へとへとになるまで働いて、退勤して、着替えて、電車に乗って――帰ったらあいつが居るんじゃないかって、そう、思っちまうんですよ」  それは。  それは確かに、ほんの少し前まで手の中にあった暮らし。この五指の中に、すぽりと納まっていた生活。  だが、僕の手のひらは今、空になってしまっている。 「……俺ぁよ、在原」嗄れた声が、か細く。先程までの威圧感も抜け落ちていた。「ウチの連中は皆、家族だと思ってる。お前の現状だってわかってるし、力になってやりてえんだよ」 「…………」 「どうだ。もう少し、もう少しでいい。俺の下で悩んじゃあくれねえか。俺らも一緒に、悩ませちゃあくれねえか」  それは魅力的な申し出にも思えた。  今までのようにここで働いて、帰りに同僚たちと一緒に酒を飲み歩いて、傷を舐めてもらえばいつかは忘れられるかもしれない。  けれど、それまでの間に僕は一体どれだけの貸しを作るのだろう。  僕一人の傷心に、一体何人を巻き込むのだろう。そして、いつか立ち直った僕はそれに耐えられるのだろうか?  僕は沈黙のまま、社長に背を向けた。もう、振り向くつもりもなかった。ただこのまままっすぐ進んで、この場を辞する。そうしなければ。  僕はきっと、潰れてしまう。 「……わかった、これは預かっとく。でもきっと、これに意味はないと思うぜ」  背後から、声が追いかけてくる。去り際に言おうとしていた「お世話になりました」が、行き場を失い、喉の皮膚を突く。  せり上がってきた微かな嘔吐感がカエルを潰したような汚い音になって、唇の間を通過していった。  額から流れて、頬を伝って、顎から落ちる。それを拭おうともしないまま。 「お前さんがいくら自分を責めたって、失くしちまった命は戻らない。だからあんまり、思いつめんなよ」  僕は。  僕はたまらず、逃げるように。 「――きっとあの子だって、それを望んじゃいないだろうよ」 *** 「そう、私はきっと、望んでなかったんだよ」  忘れもしない、水無月の中旬。飽くこともなく続く泣き空の下で、『あいつ』はぽつりと、そう呟いた。  雲に覆われた天井からは、暖かな陽光など落ちてはこない。  まだ日が傾いた程度だというのに、まるで帳を下ろしたかのような緩慢な薄暗さに覆われた街が、入眠時にも似た滑らかな呼吸を繰り返していた。 「望んでいなかった?」愚鈍な僕は繰り返すばかり。  彼女はたまに、そういう哲学めいた話をすることがあった。  しかし、あまりにも唐突に始まった出生の否定に、思わず面食らってしまったのだ。  その反応を楽しむように、『あいつ』は続ける。 「うん。私は望んで生まれてきたわけじゃなかったんだよ。たぶん、次に生まれる人をアトランダムに選ぶときに、何か手違いがあったんだろうね」 「手違いって、お前、そんな」 「そうでなきゃ、友人が勝手に応募しちゃったとか」  アイドルのオーディションみたいだよね、と、おどけるように。 「そういう軽いものでもないだろうよ。第一、生まれる前のことなんてわからないだろ?」  この時の僕は、一体何に対して憤っていたのだったか。  覚えてもいないということは、倫理観とか道徳とか、そういった味のしないものに違いない。  彼女と生きていくうえで、当たり前のように賞賛されるべきそれらは通用しない。誰かの型に押し込めるのは不可能だと経験で知っていた。  はず、なのに。 「わかるよ」彼女は続ける。「私は私だもん。生まれてから今まで。じゃあきっと、生まれる前からも。もしそうなら絶対に、生まれてきたいとは思わなかっただろう、って」 「じゃあ、お前は」  僕は何かを言い返そうとして、そこで躓いた。  持ち合わせていなかったのだ。それを拒むための言葉も、自分の見解を述べるための意見も。  けれど、彼女は小さく微笑んだ。  僕が音にするまでもなく、彼女は僕の浅はかな考えなど理解していたし、その答えも用意していた。  あいわずぼーん、だよ。 「は?」僕は素っ頓狂な声を上げた。 「だから、『I was bone さ。受身形なんだよ』昔教科書で読んだことなかった?」 「勉強、熱心なほうじゃなかったからさ」 「だろうね、まあいいよ」  とにかく、と、彼女は傘の淵に手を伸ばした。  透明な雫をひとすくい、たおやかな指に取って、馴染ませるように弄んだ。 「私たちは生まれさせられたんだよ。誰も彼も、もちろん君だって。そこに意思なんてなかったし、理念なんて影すらも。だからきっと、生まれてきた意味なんてのは」  いつの間にか、僕らの足は相当の距離を歩いていた。  底の薄いスニーカーにはほんの少しだけ水が染み込んでいて、足の裏でぎゅっ、ぎゅっ、と、不快に擦れている。  滴る雨粒のカーテンの先にはうっすらと、駅前の円形広場の輪郭が滲んでいた。  絞れるほどに水を吸った右肩が、冷えのせいか微かに震えていた。  左手で揉もうとして、握っていた傘の柄が少しだけ揺れた。途端、僕らを映す大粒が、いくつも零れ落ちた。  ゆっくりと落ちていく水滴の中で、僕と彼女の時間だけが引き伸ばされる。  それに甘えるように、しっかりと僕の両目を射抜いてから。 「だからね――大切なのは、今を生きている理由なんじゃないかって、私は思うんだ」  途端、彼女は飛び出した。傘の外。土砂降りの真下へと、何の前触れもなく。  そのまま派手に足元の水を散らしながら、一歩、二歩、三歩。  はやく。おいてっちゃうよ。  遠くで声がする。いや、そこまで遠くではなかったのだったか。どうでもいいことだ。  ただ僕は、それに追いつこうとして、惰性で傘を握ったまま駆け出して、そして、どうなったのだったか。 ――忘れるはずもない。  真っ赤に染まる視界。  ズキン、と痛みが意識を引き戻す。目を開けると、雨はすでに止んでいた。  快晴。  当てつけのようによく晴れた空が頭上には広がっている。  あの日から、まだ一度も雨は降っていなかった。  まるで雨雲もあの出来事を悼んでいるかのように。夕立の気配すらもない空梅雨だ。  まだ目の中に残る赤い靄を、頭を振って追い出す。  クリアになる視界、思考。耳の奥に蝉の声が戻ってくる。  そこは公園だった。工場から十分ほど歩いたところにある、小さな空白。  その木陰のベンチの上。安全のためという理由で遊具はおろか、ボールの持ち込みすら許可されていないここは、白昼にもかかわらず、まったく人の気配がない。  溝裏製作所から逃げるように飛び出してきた僕は、突然襲ってきた頭痛に耐えかねてここに飛び込んだのだろう。  いつもそうだった。あの日のことを思い出そうとすると、ひどく頭が痛む。  目の前は真っ赤に染まって、そのうちに、立っていることもできなくなってしまう。  何の色か、なんて言うまでもない。僕はあの場所で確かにそれを見て、この真っ赤な後悔を獲得したのだ。  呪いのような残像を焼き付けたのだ。  医者は精神的なショックからくるものだと言って、僕にいくつかの薬を処方したが、もうそれらは飲んでいない。  大した効果が得られなかったし、この痛みを、そんな血の通わないもので忘れてしまいたくなかったのだ。  両足に力を込める。何とか立ち上がることはできそうだ。炎天下、今日の最高気温は三十度も後半だと聞いた。  ここは唯一この公園で日陰のある場所だが、長居するには適さない。  目的は果たしたのだ。帰ろう、と腰を上げようとして。  着信音。  ジーンズのポケットに入れていた携帯端末が、割れた音で歌いだした。  通知される十一桁。表示される名前を見て、思わず顔をしかめる。  正直、気は進まなかったが、放っておいたほうが面倒なことになりそうだった。  仕方なく指先を滑らせて応答する。 「もしもし……」 「おい、幸輝か。お前今どこにいるんだよ」  電話口の粗暴な声には、しかし、社長のような威圧感はなかった。  幸輝。周りで僕のことを下の名前で呼ぶのは、『あいつ』を除けば一人しかいない。  同僚の岡田だ。赤茶色に染めた短髪と、細く尖った目とを思い浮かべながら、僕は言葉を返した。 「どこだっていいだろ。お前こそ、急になんだよ」 「よくねえよ。おやっさんから聞いたぞ。お前、会社辞めたんだって?」  やはりその話か。僕は一つ息を吐いた。  社長のことだ、僕とよくつるんでいた彼を使って、僕を引きとめようとしたのだろう。 「ああ、辞めたよ。戻るつもりもない、今は一人にしてくれよ」 「いや、一人にって……そんなこと、できるわけないだろ」 「できなくてもしてくれよ、誰とも会いたくないんだ。迷惑なんだよ」 「はん、それで会社も辞めたってのか? 幸輝、お前そりゃただの自棄っぱちだろ」 「それ、社長にも言われたよ。いいんだ、放っといてくれ」 「放っとくったって……あのなぁ……」  スピーカーの向こうから溜息が聞こえた。呆れてしまったのだろうか。  それならばそれでいい。このまま僕に関わらないでいてくれたら、それで。  一瞬の沈黙。端末を耳から離し、通話を終えようとしたが、それを許さないかのように、彼は続けた。 「いいのかよ、お前、それでさ」 「何がだよ」声に苛立ちが混じる。「もういいだろ、切るぞ」 「まあ、待てよ。まだ終わってないだろ。お前、おやっさんに受けた恩を忘れたわけじゃないんだろ?」  恩。忘れるわけもない。  高校を出たはいいが、就職先にあぶれてしまった僕を拾ってくれたことは感謝している。  だが、それとこれとは関係の無いことだ。結果的に仇で返してしまったことに心は痛むが、仕事を辞める自由くらいなら僕にもある。 「まさか、仕事を辞める辞めないは僕の自由だ、なんて思ってるんじゃないよな?」  図星を突かれ、思わず胸が跳ねる。  何と答えるべきか少し迷って、「うるせえよ」とだけ返した。 「途中で辞めるなんて、かっこ悪いぜ。無様な剣しか振れなくて、足はもつれて剣先はブレて、だけど試合が続いてるなら、お前は向き合うべきなんだよ」  彼はよく、剣道に例えて話をする。彼自身が剣士だったのもあるのだろう。  しかし、竹刀など握ったこともない人間にとって、そんなものはわかりづらいだけだ。 「それこそ僕の知ったことじゃない」僕は冷たく言い放つ。  スピーカーの向こうから、もう何度目かになる溜息が聞こえた。 「あのなあ、幸輝。お前が急に辞めるなんて言い出したら皆心配するんだよ。ヘコむのもわかるけど、会社からいなくなるのはやりすぎだろ。それに――」  少しだけ、間が空いた。  言うか言わざるか迷うような空気が、ほんのひと瞬きの間だけ流れて、やがて、意を決するようにして言った。 「――あの子が好きだったのは、そんなお前じゃないだろうよ」  みし。無意識のうちに、指先に力が込められる。  憤りが、一気に末端まで伸びていく。もし電話じゃなかったら手が出ていたかもしれない。  そのくらいに爪先が熱を帯びたのを感じた。 「お前に何がわかるんだ」思わずそう返した。  自分のものとは思えないくらい低い声だった。 「わかりゃしないさ。ただ、らしくねえだろ、そんなの」 「らしくって、なんだよ」 「わからん。でも、今のお前は見てられないんだよ」  見ていられないなら、見なければいいのに。  彼はいつもそうだ。要らない世話を焼くし、必要以上に踏み込んでくる。こっちの気持ちも知らないで、ズケズケと。  それはありがたいことでもあったが、今の僕には迷惑なだけだ。  静寂さえあればいい。あれこれ言われたところで、せいぜいが安眠の邪魔にしかならないのだから。  蝉が、ぴたりと鳴き止んだ。  それでもまだ、遠くで別の蝉が鳴いている。夏の間は決して、彼らの声が途切れることはない。  聞いているだけで暑くなる。僕はこの声が嫌いだった。 「なあ、もう切っていいか? ホントにしんどいんだよ。お前の声は頭に響くんだ、勘弁してくれないか」 「しんどいんなら、もっと頼ってくれよ。俺たち、友達じゃないのかよ」 「友達なんかじゃない」もう半ば、意地を張るように。「ただの仲のいい同僚だろ」 「だったらそれでいいよ。だから、もう一度――」  僕は、そこで彼の声を断った。まだ何事か話そうとしていた彼の言葉は、ぐちゃぐちゃにもつれたノイズになって、夏の音と交じり合う。  最悪だ。  自己嫌悪が、血流に乗って四肢の端まで流れていく。だからか、手足の感覚は少し遠く、何となく覚束ない。  天を仰ぐ。雲ひとつ無い青空に輝くお天道様が、一瞬だけブレた。  頭に血が上ってしまったのだろうか、と半端に納得しようとしたが、すぐに首を振る。 「……いや、ただの脱水か」  呟いても、聞いている者などいない。  もう指の中の長方形は同僚の言葉を吐いたりはしないし、彼に怨嗟の言葉を伝えてしまうことも無かった。    その表面に昔登録だけしたSNSの邪魔な通知を表示しながら、ただ黙っているだけ。  風通しのいいこの公園で、僕は一人になった。  早く帰らなければ――今度こそ腰を上げた僕は、まず額を拭った。立ち上がった途端、喉の渇きを強く感じた。  駅前に自動販売機はあっただろうか。ぼんやりと浮かべた頭の端に、今も赤い疼きがこびりついていた。 ***  僕が暮らす古アパートは、溝裏製作所から二駅のところにある。  築25年の木造建築。階段や手すりにはあちこち錆が浮き、その上を手足の無い軟体が這った後が幾重にも重なっている。  家賃が安いことと駅から近いことくらいしか利点の無い物件ではあるが、逆に言えば僕にはそれ以外の条件は必要なかった。  それこそ、大きな地震の一つでも来たら倒壊してしまいそうな見た目ではあったが、それでもいいか、とさえ思っていた。  カン、カン、カン。一段ごとに響く杭打ちのような音。僕の部屋は二階にある。  少しずつ高くなっていく目線も、この程度の上昇ではタカが知れている。  ドアノブに触れると、ひんやりした感覚が背筋を伝う。  手のひらで味わえた僅かな涼は、しかしすぐに不快な生温さに表情を変えた。  半ば八つ当たりのように、力いっぱい手首を捻る。 「……ただいま」  張りを失った声が、べたつく感触とともに宙に浮いた。物の少ない殺風景な部屋には、そんな声でもよく響く。  けれど、行ったきり帰ってくることは無かった。  わかっている。  返事をしてくれるもう一人の住人は、十日ほど前から留守にしているのだから。  留守。  二度と帰ってくることの無い、性質の悪い不在だ。  僕は足から力を抜いて、敷きっぱなしにしていた布団に倒れこむ。  汗でシーツが汚れてしまうかもしれなかったが、そんなことはどうでもよかった。  疲れた。  声にせず、口の形だけを作ってそう漏らした。    一杯に膨らませた肺から、魂ごと吐き出してしまうのではないかというくらい長い息を吐く。  気管支を抜ける風が残した細い音が、いかにもそれらしかった。  それでも、これはやることはやった、その末の疲れだ。  辞めたのだ。僕は今日から無職。貯蓄はあるにはあるが、そう何ヶ月も暮らせるような額ではない。またすぐに仕事を見つけなければならないだろうが今はそれでよかった。  とにかく、時間が欲しかった。まさかこの痛みを忘れることなどできはしまいが、痛みに慣れることくらいはできるだろう。それまで心身を休める時間が欲しかったのだ。  そうでなければ、この悲痛を誤魔化せるだけの何か――僕の全てを懸けてでもやらなければいけないこと――でもよかったが、そんなものはすぐには見つからない。  或いは、人によってはその空白を労働で埋めるのかもしれないが、僕にはあの場所に居続けることはできない。  だから今はこうして、自室の六畳間の隅で腐っているしかないのだ。  だが、あの場で社長に語ったことは、ある意味ではただの方便だったのかもしれない。  『あいつ』の面影という話をするのなら、この部屋にこそそれは染み付いている。  今でも彼女の部屋の前まで行けば声が聞こえてきそうな気がするし、朝起きたらキッチンに立っているかもしれないとさえ思う。  思う、から。  僕は未だに、『あいつ』が居なくなってから彼女の部屋に入ることができていない。  最後にあの部屋に入ったのは、訃報を聞いて駆けつけた彼女の両親だ。  多少私物を回収していったとは思うが、そのほとんどがあの日からそのまま残されている。  片付けてしまおうかとも思った。しかし、その度に扉の前で立ち尽くしたまま、僕は『後悔』に苛まれる。  ――ひとりで暮らすのなら、この六畳でさえ僕には広すぎる。  それに何より、手付かずで残った『あいつ』の痕跡を見てしまえば、僕はきっと、耐えられなくなってしまうだろう。  だから、そう言って自分を納得させた。自衛のためであることを隠そうとは、もう思わなかった。  ただでさえこの部屋には、彼女の生きていた跡が残りすぎているのだから。  例えば、と僕は首だけを動かして、南側の壁に目をやった。  そこには一枚の絵が掛けられている。生前、彼女が描いたものだ。  風景画。どこか港町を描いたもののようだ。  高台の上から見下ろすような構図で、眼下には背の低い町並みが広がっている。  空と海の境に引かれた水平線は、この四角の中では見通すことはできそうもない。  彼女は、美大に通っていた。  本当に画家になるのが夢だったのかは定かではないが、暇さえあればいつも絵を描いていた。  いつも絵の具のにおいがした。そして、いつも描きあがった作品を、僕に見せてきた。  その大半は抽象的で僕には理解の及ばないものだったが、これだけは別だった。  クリアな色彩とどこか懐かしい雰囲気に魅了された僕は、こうして部屋に飾り続けている。  確かタイトルは……。 「…………っ!」  途端、目の奥の方に疼くような痛みが走る。漂い始める赤い靄。『後悔』が、咎めるように僕のことを睨んでいる。  少し、彼女のことを思い出そうとしすぎたのかもしれない。  記憶。残された者が唯一、故人と再会することができる、頭の中に刻まれた轍。  それが僕の場合は、深い傷になってしまっている。  痛みなしでは、なぞることもできない。  僕は赤い影が躍る視界を押しつぶすように、ゆっくりと瞼を下ろす。  墨のようにしぶきを上げながらのたうつそれが、幕が落ちるよりも早く何かを描いた。  僕はそれが何なのかをほんの少しだけ考えようとして、すぐにまどろみの波にさらわれた。  その意味に到達することは、ついになかった。
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