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奥瀬の海は澄んでいる。
漁業が盛んであるということは聞いていたので、何となく水質がいいのだろうなとは思っていたが、実際に水面を見るとそれを実感する。
深く透明なその色は、けれど浅い水底までが覗けるせいか、どこか青緑に近いような色彩にも見えた。
けれど、そこには決して濁りなどはなく、目を凝らさずとも、名前も知らぬ魚類が我が物顔で泳いでいくのが観察できる。
奥瀬の海辺、砂浜沿いの道を少し行った先にある堤の縁に腰を下ろしながら、僕は深く息を吐いた。
意気込んで午後の行動を開始した僕は、まず黒木のおばあさんのところに行くことにした。
三十六年前の出来事を話してくれそうな人間をあの人しか知らなかったし、今は何より、それが先決だと思ったからだ。
しかし、まだ彼女は店に戻ってきていなかった。
代わりに店番をしているらしい黒木は戻ってきていたが、夏だというのにからりと乾いた熱気により、半分溶けているかのようにだらしのない体制でカウンターに突っ伏せている様子を見る限り、有用な話は聞けなさそうだ。
曰く、今日は街の寄り合いに出かけているそうだ。
『空想祭』に関するあれこれなのだろうが、僕はこういった閉じたコミュニティの付き合いに関してはとんと疎い。
いつ帰ってくるのかなど、見当もつかない。
一番確実なのは夜に足を運ぶことだろうが、一日に何度も家に押し掛けるというのもなんだか気が引けるというものだ。
どうしたものか。吐いた空気と入れ替わりに、潮の香りが肺を満たす。
気温こそ高いものの、頬をくすぐる涼風のおかげか、そこまで熱さは感じない。
僕の胸に燻る熱はみっつ。一つは、浅瀬の心を揺らすための手掛かりを見つけなければならないという焦燥感。
もう一つは、時限的に僕の息の根を止めるであろう、赤い後悔。
それだけではない、僕の本来の目的に関しては、これっぽっちも前進していないのだ。
僕は何とはなしに、両手の人差し指と親指をピンと立てると、そのまま四角い枠を形作り、それを眼前に向け、景色を切り取ってみた。
『あいつ』が描いたのは、この奥瀬湾で間違いない。
この海辺と、そして色褪せた街並み。それを一望できるような、広い視点から描いた構図だったと記憶している。
なら、あれはこの町を見渡せるような高い場所から見た景色なのだろうか。そんな場所が、この奥瀬にあるとするのなら――。
と。
そこまで考えたところで、僕の思考は唐突に頬に押し当てられた冷たさに遮られた。
反射的に体が跳ねる。顔の真横に見えたのは、赤と白の清涼飲料水のパッケージ。
そこまでを認識したところで、僕の耳に気持ちいいくらいの笑い声が届いた。
「ぷっ……あっはっはっはっは! ユッキー、ビックリしすぎだってば!」
そう言いながら腹を抱えていたのは、つい先ほど、人間の形を失うほどに暑さに負けていた黒木だった。
いつものゆったりとしたスウェットにバンドTシャツ、という取り合わせだったが、あらゆる建造物が潮風によって風化したこの町では、その過剰なまでに刺激的な色彩が、やけに鮮やかに見える。
彼女は手に提げていた二本の缶を片方僕に投げ渡すと、もう片方をカシュッっと開封しながら、僕の隣に腰を下ろした。
「いいのかよ、こんなとこに来て。店番はどうしたんだ?」
さっきの悪戯の意趣返しとして、僕はわざと意地の悪い聞き方をした。しかし、彼女にはほとんど通じていないようだった。
「へへん、いいんだよ。どんなお仕事だって休憩はあるでしょ? それに、気分転換は大事だって」
「サボり、ってことか」
「違うって、あくまでも休憩。ちょっと話したらすぐに戻るってば」
そう言いながら、彼女は缶を傾ける。
喉が脈打ち、炭酸の弾ける音がここまで聞こえてきそうなほどだ。その爽やかな音色に、たまらず僕もプルタブに手をかける。
喉を通過していく炭酸は、どちらかと言えば甘みや爽快感よりも、痛みの方が勝った。しかし、そんな刺激すら、今の僕には目覚ましに丁度いい。
そのまま僕らは並んで、海を眺めていた。
水面に反射した陽光が目の端できらきらと輝いている。一人から二人になったところで、無為の時間は無為のまま。
どちらかが口を開かなければ流れていくだけで、その口火を切ることが、僕にはいつもどうしてもできないのだ。
「ユッキーさ、さっきうちに来たのって、おばあちゃんに用があったからじゃないの?」
空になった缶をからりと脇に置いて、彼女はそう口にした。
「……そうだよ、昨日、いろんな話を聞いたからさ」
「いろんな、って?」黒木が何気ない様子で訊いてくる。
「僕は、あまりにも知らないことが多いんだ。この町のこと、帷子さん夫婦のこと、何より浅瀬と、あの子たちのこと。何もかもがわからないままだ」
理解の一歩目は、相手を知ることから始まる。
浅瀬はかつて、この町に住んでいたらしい。
そして『あいつ』も、僕をここに呼んだ帷子夫妻も、皆この町に育まれている。
この町の過去に何があったのか。
この町は、一体どんな場所なのか。
僕はまだ、本質には触れられていないのだろう。
ならばどうしなければいけないのか、求められている回答の形はいまだ見えず、ただ胡乱に時を浪費するばかりだ。
そうしている間にも波が寄せ、ぶつかり、砕ける。
飛沫が潮風に乗り、僅かに頬に冷たさを感じる。
けれどそれで冷えるほど、僕の頭は単純にできていないようで、行き場のない熱が、脳細胞をじりじりと焦がすような熱を感じていた。
「……浅瀬ちゃん、か。ずいぶん、懐かしい名前だね」
不意に、遠い目をしながら黒木が呟いた。
「……知ってるのか、お前も」僕は少なからず驚いていた。
しかし、当然と言えば当然なのか。『あいつ』と浅瀬は交流があったようだし、だとすれば、黒木が浅瀬と知り合いであっても、何もおかしなことはない。
そしてその予想を裏付けるように、彼女はゆっくりと頷いた。
「知ってるよ、ずっと昔のことだけど、あたしと『あの子』が、よく面倒を見ていたんだよ」
「見ていたって、浅瀬の?」
「うん」彼女は僕の方を見ないままで続ける。「あの子の家、すごく家族仲が悪かったんだ。浅瀬ちゃんが中学に上がる前くらいに、父親の仕事の関係で引っ越していっちゃったんだけど、それもギリギリまで家族の中では意見が割れてたんだってさ」
「中学に上がるころに引っ越した……それまでは、お前らと関わりがあったってことか?」
「……あの子、いつも一人でいたんだ。親が喧嘩してる所見るの嫌だからって、バス停のベンチに腰かけて、日が沈むまで家には帰らないの。それが何だか、すごくかわいそうでさ。」
話を聞きながら、僕は頭の中に、浅瀬の顔を思い浮かべていた。
あのがらんどうの瞳。並大抵の絶望ではああはならない。どんなに救われない人間だって、あんなに昏い目をするようになるまでには、何か背景があるはずだ。
それが彼女の場合は、家族関係だったのだろうか……?
予想としてはいい線を言っている気がしたが、しかし、何か噛み合わなかった。
それだけではない。そんな気がしてならなかったのだ。
「でも、あの子はどっちかっていうとインドア派だったからさ、あたしよりも『あの子』に懐いてたな。二人でよく出かけたりもしてたみたいだし、傍から見たら本物の姉妹みたいだったよ」
そんな過去があったのか。
なんだか不思議な感覚だった。
誰よりもよく知ると思っていた『あいつ』の過去の姿。それは僕の知らない『あいつ』の一面であり、しかもそれが、ここにきて浅瀬との繋がりまで見えてきた。
縁。
なんだか何もかもが、奇妙な因果の糸で繋がっているような気さえしてくる。
或いは、この不可思議な一致こそが僕が探している、『あいつ』の残り香なのかもしれない――と、そこまで愚考して。
ずきん。
「――ぐっ……!」
頭に、釘でも撃ち込まれたかのような痛みが走った。俄かに視界に広がる赤い靄は、血液を想起させる色に海を染め上げていく。
しまった、考えすぎたか。
「……ユッキー! もしかして、また……?」
頭を抑える僕の顔を、慌てた様子で黒木が覗き込んでくる。不安そうに眉を寄せる彼女に、僕は掌を向けて大丈夫だとサインを送る。
そのまま肘の裏側に額を埋め、呼吸を整えていく。水分が乾くようにして退いていく赤色を眺めながら、僕は思考する。
もし。
もし、すべてが繋がっているとして。
この町のことと、浅瀬のこと。それら全てが『あいつ』と無関係でないのであれば、僕はいつか、この痛みすらも超えなければならないのだろう。
皮膚を這う傷の一つとして。
そうしなければ、最後までこの舞台の上には残れない。
僕の役を、全うできない。
「……大丈夫だ、心配いらない」
なんとかそれだけを音にしながら、僕は額から噴き出てきた冷たい汗を拭った。
そして、誤魔化すように缶ジュースを煽る。喉を流れていく糖液からは、先ほどよりも炭酸が抜けているようだった。
「……ユッキーさ、不思議に思ってたことが一個あるんだけど、聞いていい?」
肩を上下させながら息を整える僕に、黒木が深刻そうな声色で訊いてきた。
「なんで、そんなに傷ついて、そんなに痛みを抱えているのに、あの子たちと向き合おうとしてるの? ユッキーだって、誰よりも傷ついてるじゃん。そんな状態で他人の傷まで背負い込もうだなんて、無理だよ」
なんで。
改めてそう問われると、返答に窮する。
言語化できる理由は、無かった。ただ、秀昌さんにこの町に呼ばれて、あいつらと引き会わされて、成り行きのまま、あいつらの引率を押し付けられた。
そして気づけば、引き返せないところまで来ていた。あいつらのことも、秀昌さんたちのことも、もしかすると、僕が出会えなかった『コウタロウ』という文芸部員のことも。
僕は全てを知らなければいけないと、そう思うようになっていた。
或いは。
それこそが、あの人たちの狙いだったのかもしれないが。
「……だったとしても、やるしかないからな」
僕は声に目いっぱいの力を込めた。自分を鼓舞するように。
『空想祭』は明後日だ。浅瀬にぶつかりに行くには、今日か明日しかない。
それを逃せばもう――僕にできることは無くなってしまうのだから。
「……ユッキー、もしかしてだけどさ」
僕の横顔を見ながら、黒木が神妙な面持ちで呟いた。
「もしかして、なんだよ?」
しばらく考え込んだ彼女は、やがてニッと口角を上げた。
「やっぱ、いいや! 気にしないで!」
そう言われると、余計に気になるものなのだが。
しかし、茶化すように笑う彼女は、その先を口にするつもりは無いようだった。
釈然としないながらも、話すつもりがないのであれば追及するほどのことでもない。僕は気分を入れ換えるために立ち上がり、大きく伸びをした。
手足の筋肉が程よく伸び、皮下を血が流れていく感覚が心地いい。
後悔の赤色のせいか、体は幾分重い気もしたが、動けないほどではない。
とりあえず、黒木に別れを告げてどこかに移動しようかと、そんなことを考え始めた、その時だった。
「……ん?」
立ち上がり、ほんの少しだけ高くなった目線。広がった視界。
その端の方に、見覚えのある姿が映った。
「……あれは、浅瀬?」
折れそうなほどに華奢な体躯。そして、涼やかに揺れるショートカット。
見えたのは僅かに後ろ姿で、顔までははっきり見えなかったが、その服装は確かに、昼食の席で見た彼女のものと同じだった。
彼女は何やら、覚束ない足取りで、海沿いを僕らとは逆の方向に歩いていく。
港とも反対の方角であり、僕もまだ行ったことがない辺りだが、遠目に見る限りでは何か特別なものがあるようには見えなかった。
「浅瀬ちゃん? どこ?」
隣で黒木も立ち上がり、僕に並ぶようにして視線を向ける。
そして、目を細めた彼女は、驚愕を含む声色で、ポツリと呟く。
「……あっち、昔の浅瀬ちゃんの家の方向だよ」
浅瀬の家? と、一瞬首を傾げそうになって、すぐに思い至る。
浅瀬がかつてここに住んでいたのなら、当然、その時に暮らしていた家があるはずだ。
なら、郷愁に駆られた彼女がそこに向かうのも自然――なのだろうか?
ただ、それだと疑問が残る。
「待てよ。浅瀬は確か、父親の仕事の都合で引っ越したんだったよな。ってことはそこにはなにも残ってないんじゃないのか?」
愚鈍な僕に、黒木もどこか戸惑ったように返す。
「うん、私が知る限り、空き家になってると思うし――誰も手入れしてなかったから、ほとんど廃屋みたいになってると思うよ」
廃屋。
どうしてそんな場所に、彼女は向かおうとしているのだろう。
生きる意味を失い、自分のルーツに迫りたいと思ったからだろうか? 少なくともそれは、この数日で僕が見てきたあのがらんどうの少女には似合わないような気がした。
むしろ、あの虚ろの瞳は、破滅的な背景でこそ映えるのではないか。
そこまで考えた僕の体は、自然と動き出していた。
「ちょっと、ユッキー、何するつもり?」
慌てた様子で、黒木が制そうとしてくる。その手を振り払って、僕は歩き出す。
「黒木、お前は店に戻っていてくれ。僕はあいつの後をつける」
「後を……って、どうして?」
「嫌な予感がするんだ」僕は正直に言った。「浅瀬の奴、何かよくないことを考えてるんじゃないかって、そんな気がさ」
杞憂で終われば、それでいい。
けれど、僕は彼女のことを半端に知ってしまった。
『――生きている意味なんて、無いんだから』
彼女の血の通わない、体温の抜け落ちた声が、鼓膜の内側で反響する。
生きている意味なんてない。
彼女の生は、そう口走らせるほどに疾んでしまっている。そして、その傷痕の色に、僕はどこか既視感にも似たものを感じてしまったのだ。
もしかすると、あいつと、僕は――。
「……いいよ、わかった。それじゃあ、あたしもついていく」
黒木は、そう口にすると僕を追い抜いて歩いて行った。驚く僕を尻目に、彼女は事も無げに笑っていた。
「何、その顔。浅瀬ちゃんとの付き合いはあたしの方が長いんだよ。あたしだって、あの子が心配なんだ」
「店番は、いいのかよ?」僕は茶化すようにして言いながら、彼女に追いつく。
「どうせ、来るのなんて暇つぶしにほっつき歩いてるジーさんバーさんだけだしね。むしろ、ここでユッキーを一人で行かせた方が、後になっておばあちゃんに怒られちゃうよ」
それにね。と、彼女はほんの少しだけ、目を伏せた。
「もう、誰一人失いたくないんだ。悲しいお話はもうたくさん、そろそろお天道様が見たいんだよ、あたしだってさ」
僕は、それにただ頷きだけを返した。あるいは、それをこの空梅雨に言ってのけるのが、黒木澄香のいいところなのかもしれない。
目標は定まった。となればもう、足取りに迷いはない。僕たちは海沿いを歩いていく。
それは尾行をしているとは思えないほどに堂々とした足取りかもしれなかったが、少なくともがらんどうの少女はそれに気が付くことは無く、また、咎める者も誰もいない。
ただ、少女の笑い声のように甲高い音を立てながら吹き抜けていく潮風だけが、その行く末を見守ってくれているようだった。
***
「……ついたよ、ここが浅瀬ちゃんち」
そう言いながら黒木が歩を止めたのは、歩き出してから半刻ほどが経ってからだった。
浅瀬の生家は、海岸沿いをしばらく行ったところにある、意外なほどに普通の平屋だった。
表札こそ取り外されているが、黒木が言うのだから間違いないだろうし、浅瀬がここに入っていったのを、僕たちは確かにこの目で見ている。
しかし。
「……いや、何というか、人んちにこんなこと言うのもなんだけどさ」
案の定というべきか。浅瀬のかつて暮らしていた家は、廃屋になっていた。
窓ガラスにはヒビが入り、玄関の扉は外れてしまっていた。そこから見える床の木目は毛羽立ち、近づけばその上を、名も知らぬ節足動物や蜘蛛が這いまわっているのが目に入った。
屋根の瓦は何枚かが飛び、その部分にはぽっかりと穴が開いてしまっている。
そこから侵入した雨風で木材が傷んでしまったのか、黴が乾燥したかのような、白い跡が点々と残っている。
庭には雑草が生い茂っており、誰かが手を加えたような跡はない。きっと、浅瀬たちがいなくなってからずっと、ここには誰も踏み入っていないのだろう。
奥瀬は過疎化が進んだ地域だ。商店街や港の近くから一本外れれば、こういった廃屋はいくらでも見つかる。
この場所も例外なく、かつてあった営みの残骸、その果ての背景の一つとして、埋もれてしまっていた。
「この辺りは、海に近いからね。人が住まなくなると、あっという間に家が駄目になっちゃうんだ」
黒木がどこか、後ろめたそうに口にする。
この町で生まれ育った彼女は、もしかすると健在だった頃のこの家を訪れたことがあるのかもしれない。
重ねてしまうのも、仕方がないだろう。思い出が鮮明に残るほど、それが褪せた時の痛みは大きい。
そう遠くないいつか、この小さな町は、全てがこの風化に飲み込まれて、大きな瓦礫と、歴史の死骸の山になってしまうだろう。
黒木澄香という人間が、それに何も感じないような冷血な人間でないことは、僕もよく知っている。
「……だとすれば、だ。浅瀬はどうして今さら、こんなところに足を運んだんだ?」
だからこそ、僕はわざと話を逸らした。いや、本筋に戻した、という方が正しいかもしれないが。
僕たちが今追い求めるべき本質は、明らかにそちらの方だ。この、かつての暮らしの、思い出の抜け殻に過ぎないこの場所を、どうして彼女は訪れようと思ったのか。
ここにはもう、何かがあるようには見えない。
荒れ、腐り、乾き。何一つとして言葉を発することもなくなってしまった、物言わぬ、いわば、家の死体だ。
「わからない。少なくとも浅瀬ちゃんたちはこの町を出る時に、家財道具は全部持って行ったと思うよ。私もここはただの廃墟だと思っていたし、取り立てて何かが残っているとは思わないけど……」
黒木は自信なさげにそう口にしたが、彼女が言うまでもなく、それは明らかだった。
家の中は閑散としていた。
所々崩れかけたり、床板が傷んでいたりしたために踏み入るのを断念した部分もあるが、そうでなくとも、この家には人が住んでいた形跡は何一つ残されていない。
漂白されている、とでも言うのだろうか。
あるいは、この場所で生きていたあの少女なら、こんな空白の中でさえも、何かを感じ取れるのかもしれないが。
しかし、そんな与太話を否定するかのように、僕たちが浅瀬と行き会うことは無かった。
懐かしさに足を運んでみたが、何も見つからず、諦めて帰ったということだろうか。だとしても、どこかですれ違ってもよさそうなものだが。
少なくとも、この家の中にはもう、彼女の気配はなかった。
拍子抜け――いや、安堵に似た感覚が僕の腹の底からじんわりと持ち上がってくる。
もしかすると、場合によってはこの場で再び浅瀬と向き合うことになっていたかもしれなかったのだ。
今はまだ、その心構えはできていない。
こんな半端な状態で対峙すれば、僕は容易く、あの虚ろの両目にへし折られてしまうことだろう。
僕らは土足で上がりこんでしまったことの背徳感に急かされるように、けれどできる限り音を発てないように歩みを進める。
そんな中、黒木が小さく呟いた。
「……浅瀬ちゃん、さ、もう帰っちゃったのかな?」
「可能性は高いな、おおかた、何か思い出が残ってると思っていたんだろ。アテが外れて、それで――」
「本当に、そう思う?」僕の結論を制するように、黒木は言う。
「本当にも何も……この家の中であいつと出くわさなかったし、誰かがいるような気配や音も聞こえない。あいつはもう、ここにはいないんだと考える方が自然だろ」
浅瀬の家は、結構な広さがあった。
こういった田舎町はもしかすると土地が安いのかもしれない、庭付きの立派な平屋ではあったが、僕ら以外の誰かがいれば、それに気が付かないほどではない。
ここにはもう、僕たちしかいない。
一瞬だけ、尾行が露見して逃げられたのかもしれないとも思ったが、あいつには逃げる理由などないだろう。
だとするのなら、僕の推理はかなり的を射ているような気がする。
「うん……でも、あの子がそんなに意味のないことをするかな……?」
黒木はそれでも、納得がいっていないようだった。
僕は正直、浅瀬がどういう人間なのか理解しているとは言いづらい。
その辺りはむしろ、僕よりも以前から付き合いがあったという黒木の方が詳しいだろう。
そんな彼女が首を傾げるのであれば、僕はそれを蔑ろにはできない。
黒木はそうして、しばらくの間、何かを考えこんでいるようだった。
「うん……あたしたちがこの家の中で会わなかったのなら……もしかすると」
そして、何かを思い出したかのように顔を上げると、そのままどこかに向けて歩き出した。
僕はその後をついていくことしかできない。唐突な彼女の行動に、思わず困惑の言葉が口を突く。
「おい、どこに行くんだよ。まさか、浅瀬がどこに行ったのか知ってるのか?」
「知らないよ、でも、私たちはあの子と出くわさなかったんだ。その理由は、きっとこれ」
彼女が向かったのは、縁側の方だった。
玄関先から見えたように、中庭は腰の高さまで生い茂る雑草によって覆われていたが、目を凝らすまでもなく、それに気が付くことができた。
「……これは?」
僕の腰ほどまで伸びた夏草たちの中に、一部だけ、横倒しになっているものがあった。
自然現象や動物の仕業――ではない。明らかに人為的に、その部分だけが踏み固められている。
そして、その先には小さな――トタン屋根の小屋があった。
「あれは、浅瀬ちゃんちの納屋だね」口にした黒木が、縁側から飛び降りる。
僕もそれに続き、黒木を先頭にして草むらに分け入っていく。
こんな風に草木をかき分けて歩いたのはいつぶりだろうか、と、ほんの少しだけ懐かしくなったが、その気持ちはすぐに手足に纏わりつく藪蚊の煩わしさに上書きされた。
浅瀬は、あの小屋に用があったのだろうか。打ち捨てられた納屋に、いったい何が残っているというのだろうか。
近づいていくごとに、少しずつ回答の解像度が上がっていく。
そして、いよいよ目前というところで、僕たちは立ち止まった。
「……扉、開いてるな」僕は緊張を隠せないままで、そう言う。
前を歩く黒木の表情はわからなかったが、彼女も心中穏やかではなかっただろう。
浅瀬は、まだ中にいるのだろうか。
だとすれば、僕は彼女に何と言葉をかければいいのか。正直に言うわけにもいくまい。
僕も黒木も――厳密には浅瀬もだが――完全に不法侵入者なのだ。
けれど、それは先に進むのを止める理由にはならなかった。
好奇心とも少し違う、ここまで来たのだから後戻りはできないのだという、どこか間の抜けた使命感のようなものに突き動かされ、僕は黒木を追い越すようにして、中に入っていった。
結論から言うと、中に浅瀬はいなかった。
納屋の中は、酷く蒸し暑かった。加えて、ずっと手付かずだったのだろう、埃の臭いと生ぬるい空気が混ざり合い、僕は思わず、腕で口を塞いだ。
どうやら、浅瀬の家族は引っ越しの際、この中のものまでは全て持っていかなかったらしい。
狭い室内に、年季の入った家電製品やガラクタのようなもの、古びた替えのタイヤなどが放置されていた。
「この辺りのものは、持っていくのにも処分するのにも一苦労だからね、きっとそれで、置いていったんだと思う」
言いながら、黒木が手近な棚を指でなぞり、そのまま吹いて飛ばした。入り口から差し込む光に、舞う砂埃がキラキラと反射する。
なるほど、と納得はしたものの、なおさらわからなくなってしまった。まさか浅瀬は本当に、かつて奥瀬に住んでいた頃を懐かしんでここを訪れたというのだろうか。
だとすれば、僕は随分と要らない心配をしたようだ。
どこか落胆にも近いような思いを掲げながら、僕は辺りに視線を這わせた。
骨折り損を避けようという気持ちですらない、本当に何となく、気になるものがないかという程度の無為の行為。
そして、それが偶然にも、何かを捉えた。
気になったのは、入り口のすぐ脇に積まれていた古雑誌の類だ。
ビニール紐でくくられたそれらは、例に漏れず長い間放置されていたはずのそれらは、浅瀬が訪れるまで閉じていた扉に守られていたからなのか、幾分風化が進んでいないようだった。
そして、その中の一束の紐が切られ、何冊かが無造作に投げ出されていた。
「…………」僕はゆっくりと、それに近づいていく。
どうしてかはわからない。けれど、鼓動が早くなっていく。
浅瀬の目的は、これだったのだろうか?
放置された雑誌はどれも、三十年以上前のものだ。
どうやら奥瀬町の町会誌のようだが、表紙は既に色褪せ、端の方は虫食いか経年劣化か、いずれかによってボロボロになっていた。
「ユッキー、なにそれ。古い雑誌?」
僕の肩越しに顔を出した黒木が、興味深げな視線を寄越した。
「ああ、たぶん、ずっと昔の奥瀬のローカル誌だと思うんだけど」
「ふーん、浅瀬ちゃんち、そんなのとっといてたんだね……あ、うちの広告も載ってる」
そう言いながら黒木が指した先には、時代を感じる字体で『黒木商店』の四文字が躍っていた。
当たり前と言えば当たり前だが三十年以上前の誌面に現存する店や人の名前が載っているのは、なんだか不思議な感じがする。
読み進めていけばいくほど、その感覚は強くなる。
まだ奥瀬が、港町として今よりも栄えていた頃の人々の暮らしが、そこには残っていた。
僕と黒木は、興味本位で雑誌を読み進めていく。
途中、黒木が「このお店、十年くらい前に無くなっちゃったんだよね」や、「あ、このお爺ちゃんは今も漁師を続けてるよ。若い頃はこんな感じだったんだ」なんてコメントを挟みながら、僕らは何も考えずに、ページをめくっていく。
一ページ、また一ページ。
進むごとに、僕の頭からは危機感が薄れていく。
だが、忘れてはいけなかった。
これは恐らく、浅瀬が読んでいたものだったのだ。廃墟と化してしまった自分の生家に忍び込んでまで、彼女はこれを読もうとしていた。
その理由が、ここにはあるはずだったのだ。
「いやあ、なんだか懐かしいねユッキー、あたしたちが産まれる前のこの町のことなんて――」
能天気にそんなことを抜かしていた黒木の表情は、そして、恐らくは実際にページをめくっていた僕の表情は、次の一枚を捲ったところで、固まった。
僕らの視線は、ほとんど同じタイミングで、同じ位置に固定される。
それは、とても小さな見出しだった。
そこに並ぶ文字を目で追って、僕も黒木も、その意味を瞬時に理解する。と、同時に僕は半ば反射的に奥付を探していた。
糊の剥がれかけた雑誌が分離しそうになるのを抑えながら、一番最後のページにそれを見つける。
この町会誌が発行されたのは、三十六年前。
三十六年前の、七月――。
「……ねえ、ユッキー。これって……」
黒木の声が、微かに震える。そんな彼女に僕ができたことは、ただ湧いてきた疑問をぶつけることだけだった。
「黒木、お前……これ、知ってるのか?」
彼女はブンブンと首を振る。
それはどこか子供っぽい仕草に見えたが、それを咎めたり茶化したりする余裕は、もうどちらにも残っていなかった。
「聞いたことは……あるけど、でも、こんなことが起こってたなんて、おばあちゃんもお母さんも教えてくれなかった」
黒木の眼は明らかに泳いでいた。無理もない、彼女にとっても『これ』は決して他人事ではなかったのだから。
僕の頭の中で、欠けていたピースがはまる音がした。
もしかして、『これ』なのだろうか。
この町がどういう場所なのか、どうして僕がここに呼ばれたのか、そして、帷子夫妻の時間が、どうして止まってしまったのか。
すべての答えがここに帰結するのだとして、どうして浅瀬はこれを読みに来たのだろうか。彼女と『これ』に、どんな関わりがあるのだろうか。
戸惑う僕らを嘲笑うかのように、戸口からセミの鳴き声が忍び寄ってくる。
それは真相に迫ろうとしている僕らを讃える歌なのか、それとも、警鐘を鳴らしているのか。都合のいいように解釈して、怯える心を押し殺すしかない。
そんな僕らだが、わかったこともある。ひとつは、知ってしまった僕たちが、知らなかったころにはもう戻れないということ。
そしてもう一つは――恐らく、あの二人も『後悔』を抱えているのだろうということだ。
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