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赤いコート。
赤いマニキュア。
赤い口紅。
黒い瞳。
ソファーに腰掛け、立てた片ひざに横顔を乗せ、挑発的にこちらを見る。
向かう所敵なし、モデルとして最盛期の私を描かせた絵だ。
30年前の私の絵が、30畳の自宅リビングを見渡す壁に飾られたのは、2週間前。
モデルを引退して15年、特にここ5年は、怠惰で、気力なく過ごしていた。
そんな自分を奮い立たせる為に、この絵を倉庫から引っ張り出して来たのだが。
全く何も感じない、懐かしさすら感じない。
どうしたものか。
気分転換に、昔の仕事仲間を大勢自宅に招待して、パーティーでもしようかと冗談混じりに漏らしたら、夫が反応した。
リビングのソファーで、読んでいた本越しに「やめといた方がいいんじゃない」と、ニヤっとして、鼻で笑って見せた。
私の頭の中で何かが決壊した。
バカにしている!バカにしている!
誰もこないと思っているのだ!
大激怒した私が、片っ端から招待のメールを送ったのが一週間前。
今日の12時に、客が押し寄せる。
身支度に忙しい私を尻目に、リビングでパーティーの準備をしている夫はのらりくらり、
間に合わせる気が全くない。
来るはずがないと思っているのだ、完全に舐めている。
キレそうになりながら、私は冷静に考える。
私の身支度だけは仕上げよう、主催者が貧弱に迎える訳には行かない。
最悪、後輩に手伝って貰う手もある。
気持ちを落ち着け、もう一度夫の様子を伺う。
夫はリビングに据え付けられた接客用カウンターキッチンの奥で休憩している。
今に見ていろ!私が一声掛ければ、どれだけの人間が集まるのか、今一度知らしめてやる。
兎に角急ごう、スマホで時間の確認をしようとしたが、手元にない、つのるイライラを押さえながら、リビングの時計で確認する。
壁の時計が12時を指す。
まだ誰も来ない。
身支度はまだ終わっていない。調度いい、遅刻大歓迎。
13時。
よし支度は終わった。
いつでもウェルカム。
夫はまだパーティーの準備、のろまめ。
まだ誰も来ない。
電車遅れてる?渋滞?
13時30分。
ようやく夫が準備を終えソファーに腰掛ける。
リビングのテーブルには料理やお酒が、豪華に準備されている。
誰も来ない。
……
招待したみんなに連絡を取って確認する勇気は、今の私にはない。
私はソファーに腰掛け、うなだれるしかなかった。
夫の顔をまともに見れる訳もない。
十数年ぶりかに、張っていた気が一気に抜けるのを感じた。
怠惰に過ごした報いだ、今まで知人や仲間への連絡も、まともにしていない。
年末年始の挨拶も夫に任せっきり。
こうなると予測出来なかった自分に腹が立つ。
こらえていた涙が零れる間際、微かにインターフォンの音が聞こえた気がした。
夫がソファーから腰をあげ玄関に向かう。
もう一度、今度は確実にインターフォンの音を私の耳は捉えた。
暫くして騒がしい音がリビングに近づいてくる。
ソファーにうなだれていた私が顔を上げると、そこには、後輩達に、仕事仲間のカメラマン、昔在籍した事務所の社長、メイクさん、同期達、数え切れない懐かしい顔。
私は声を上げて泣きそうになるのをこらえて零れ落ちる前の涙を素早く拭った。
遅い!
「あれ?12時でしたよね」
腕時計を確認する後輩を見て、ハッとした私は夫を振り返った。
夫は壁に掛けた時計を巻き戻している。
やられた!私の最大の弱点、遅刻。
モデル時代も、遅刻で窮地に立たされた事、数知れず、結婚前の夫に時計を早められ、救われた事も数知れず。
現に今日も、身支度は間に合っていなかった。
夫はポケットから私のスマホを取り出して、テーブルの上に置くと、何事も無かったように、みんなに挨拶をして、カウンターキッチンの奥へと姿を消した。
悔しい、悔しいけど、今は楽しもう、もったいない。
同期が料理に飛び付いたのをきっかけに、
みんな昔話に花を咲かせ始めた。
時折爆笑しながら、だいぶ長い時間、喋り続けたせいか、喉が渇いて来た。お酒も切れかけている。
私は上機嫌で、カウンターキッチンの奥に入り、お酒を数本手に取る。
カウンターの向こうでは楽しそうな話し声。
私は何年かぶりの高揚感に包まれて、活力が湧いて来る気がしている。
パーティーを開いて良かった。
早くカウンターの向こうへ、みんなの元へ。
早る気持ちで歩きだそうとして、私は立ち眩みに襲われた。
後ろにバランスを崩す私を誰かが抱き止め支えた。
この感触は夫だ、心なしホッとする。
気づかぬ間に疲れていたのかもしれない。
「私も歳には勝てないって事かなぁ」
「あれ?やっぱり止めとけば良かったんじゃない?歳だし」
この男は全く。
やっと解った、きっとこの男は、私を挑発するタイミングを狙っていたのだろう、何年も。
私を甦らせる為に。
モデルを引退した私が怠惰な生活を送る事を、気力のない自分自身を、私自身が嫌悪し続けていた事を感じ取っていたのだ。
人の言うことを聞かない私は、挑発するのが一番効果的なのを、この男は今も昔もよく知っている。
「ライバルが見てるよ」
夫が壁に掛けられた絵を指差す。
赤いコート。
赤いマニキュア。
赤い口紅。
黒い瞳。
ソファーに腰掛け、立てた片ひざに横顔を乗せ、挑発的にこちらを見る。
相手にとって不足はない、かかってこい小娘。
解っていながら挑発に乗る私。
私の人生に必要なもの、挑発と夫、である。
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