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自らの軽率な行いを心底から悔いた赤尾の耳に
「おわぁ。たすけてぇ」
左斜め前方、10時方向から声が聞こえ、思わず声を上げそうになった。
嗅覚も聴覚も虚穴に注意を向けすぎて、気付くのが遅れてしまった。
獣の鳴き声にしてはハッキリとした音だが、人間や狗人の話し方にしては抑揚がなく平板だ。
風に混じって、獣じみた体臭がほんのかすかに漂う。
獣臭さに、果実が腐ったような甘ったるさ。マンティコアだ。
人間のような顔とライオンか虎によく似た胴体を持つこの侵獣は、巧みな声真似で獲物の気を引くことで知られている。
「ままぁー」
暗闇の向こうに、ふたつの目が炯々と光を放っている。距離は40メートルくらいか。
舌っ足らずな子どものような喋り方に、赤尾は心当たりがあった。
半月前、少し離れた場所にある道で、滅茶苦茶にひしゃげた乗用車が発見された。
車に乗っていたであろう人間の姿はなく、代わりに大量の血痕と、ほんの僅かな人体の一部だけが残されていた。
損壊した車内に残されていた毛と体臭は、マンティコア──今まさに、目の前にいる化け物のものだった。
4.
負革で吊り下げたカービン銃を引き寄せ、手元に構える。引き金に指を掛ける。
M300に装弾された5発すべてを命中させれば、おそらく動きを奪える筈だ。大丈夫、勝てる。
オープンサイトで狙いを定めようとしたとき、不意に感じた気配に身体が半ば勝手に動く。銃を抱えたまま左方向に2メートルほど側転する。
下草の棘が、服と毛並みを通り越して地肌に突き刺さる。痛い。だが、もし人間種の肌ならば、痛いでは済まなかっただろう。
つい今し方まで自分がいた空間には、あらたなマンティコアの姿があった。
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