巴御前ー平家物語ー

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 気がつくと、義仲の馬が(あるじ)を心配してか後ろからついてきていた。 「お前の主は長くない。どこへでも好きなところにゆくがよいぞ」  馬は言葉がわかったのか、ゆっくりと足を止め、つぶらな瞳を巴に向けたまましばらくその場を動かなかった。 「巴よ、必ず兼平の元に……そしてお前はおなごに……生きて……帰るのだ……ぞ」 「はい、必ずや兄上の元に。最後まで扱っていただいた義仲様には、感謝の意しかございません。ありがたき幸せにございました。残りは兄上と穏やかにお過ごし下さいませ」  馬を走らせると何本も矢の刺さった兼平が見えたが、まだかろうじて馬上にあった。 「兄上、遅くなり申した!」 「巴!なぜ戻ってきたのじゃ」 「義仲様を連れて参ったのでございます。私が義仲様を刺しました」 「刺した?」 「義仲様に命を受けたのです。ご自害が間に合わず、名もない武将に討たれるよりは巴に殺されたいと」 「うむ」 「……そして、兄上の元に帰りたいと」  巴はすでに息をしていない義仲の亡骸を丁寧に兼平の馬の上へと移した。鎧を着た義仲の体はすでに岩のように硬く重かった。兼平には義仲の体を受け取る余力さえも残されていない。馬に乗っているのがやっとであった。 「ここは巴にお任せ下さい」  巴は兜を脱ぎ捨て、義仲の兜をそっと優しく取り上げると自分の頭に被せた。 「義仲はここじゃ!首がほしくば相手をいたすぞ」  強弓を放ち、大太刀をかかげた。放った弓からは巴の腕の血が飛び跳ね、振るった大太刀を持つ腕からも、どくどくと脈打ちながら血が流れ落ちた。反乱した川のように止めどなく溢れ、血の流れを遮るものは何もない。 「兄上、決して討たれますな!」 「大丈夫じゃ。義仲様とともに自害いたす」 「首を渡してはなりませぬぞ」 「渡すくらいならば、わしが喰らおうぞ!」 「ほほほ、余計な心配でしたな。ではゆかん!」 「巴ぇ!最後までかたじけない」  兼平の声が遠く背中の方から聞こえた。走り去る兼平の馬の後ろには、真っ赤な液体が転々と広がり、地面を斑模様のように染め上げていた。二人分の血の量にしてはあまりに多く、自害する前に討たれやしないかと心配になる。そう思う巴も全身のいたる所から流血し、白い肌は鮮やかな染め物のような桃色に変化していた。  子供の頃から尊敬していた兄、兄のように慕っていた義仲、巴は幼き時代をそっと思い出していた。ともに遊び、剣術、武術、体術、全て義仲に捧げるために生きてきた。 「本当のおなごであったなら……」  本当のおなごであったら何だったというのか。兄である兼平と義仲を幼い頃から見ていたので、そんなどうしようもない想像も無意味だとわかっているのに考えないではいられない。  おなごであれば最後までここに残ることもなくさっさと討死していたかもしれず、それどころか、この戦いのもっと前に義仲も兼平も討たれていたかもしれない。最後に残っていたのが自分でよかったとさえ今は思えた。  巴の囁きが風に乗って一回転するが、そのままどこへもたどり着くことなく、線香花火の灯火がふいに落ちるように消えた。落ちたというよりはそこにある全てを呑み込んだような目まぐるしさだった。  義仲だと名乗り、最後の最後まで勇敢に闘いぬいた大男を見たものはいたが、その男の倒れた姿を見たものはいない。その遺体を見たものもいない。  巴の首は最後まで行方知れずだった。 (了)
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