取調室

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取調室

 容疑者である宇治豪介は取調べの冒頭にこう言った。 「刑事さん、僕は本当のことしか言いませんよ」  その時のことを思い出しながら、綴喜(つづき)杏子は思わず机を殴りたい衝動に襲われたが、すんでのところで思いとどまった。今ではこうした恣意行為も違法捜査として咎められる世の中だ。  杏子は吸い込んだ息をゆっくり吐きだしながら、自分のシャツの襟元を力いっぱい掴んだ。そんなことで気分が和らぐわけもないが他に仕様もない。もう一度深く息を吸うと埃っぽい取調室独特の匂いが鼻腔を通過して、余計に気分が悪くなるようだった。 「大丈夫ですか先輩」 「……イヤね。ここは埃っぽいわ」 「まあ、明り取りしかありませんから」  杏子の後を追って取調室を出でてきた長身の男は、彼女の相棒で名を乙訓(おつくに)清史郎と言う。年は杏子より五つ若く、有名国立大出身の彼は所謂エリートだ。私大出の杏子とは行き着く場所の違う人間だった。  出てきた部屋を振り返ると、事務机を前に宇治のうつむいた姿が見える。今日の取調べが終わり留置所へ戻されるため、外されていた手錠をかけなおされるところだった。 「まったく訳がわからないわ。口にすることは全部出鱈目なのに、妙に的を絞ったようなことを言う」 「確かに、何も考えていないうようには見えませんが……」  取調べ中の宇治の態度は一貫していた。聞かれたことには回答するが、既知のことにはだんまりをして否定も肯定もしない。疑問や憶測が介在する尋問には必ず答えるのだが、言っていることは、どうやら事実ではないことばかりだった。  勾留期間の満了は明日で、それを迎えればタイムアップ。検察への送致は見送られてしまう。余罪の見当たらない宇治は別件で逮捕することもできず、このままでは勝ち逃げを許すことになるのだった。 「かと言って、久世を殺したのが宇治だとは、僕にはちょっと思えません」 「そうね……。それにしても逮捕が早すぎたわ」  目頭を親指と人差し指で揉みほぐしながら、杏子は乙訓の述懐に同意した。  しかし現状、宇治以上に怪しい人物は捜査線上に浮かんでいない。証拠不十分のまま送致ができないとなれば、事件はこのままお蔵入りになるだろう。地方で起こった決して大きくない事件は、いずれ人々はおろか警官たちの記憶からも薄れていくだろう。  手錠をかけられ、腰縄を引っ張られて連行される宇治を見送りながら、杏子は盛大にため息をついた。壁にもたれかかっていた乙訓が、ほとんど愚痴のような述懐をする。 「本星の取り調べを僕らが担当するのも、本来ならあり得ないことですが、これじゃあ貧乏くじを引いたようなもんですね」 「…………」  一課にはベテランの刑事が何人もいる。それらを差し置いて杏子らが取調べにあたっているのは、大物政治家による大規模脱税事件が目下捜査中であり、一課の人員の多くがそちらに割かれているからだった。捜査本部は置かれているものの、本来の規模に比べればささやかなものになっている。 「葛野管理官も事件の掛け持ちだし、これはいよいよお蔵入り……」 「人一人が死んでいるのよ。小悪党とは言えね」 「それはそうですが、時間がなさすぎますよ」 「……まだ、二十時間あるわ」  乙訓の愚痴を遮って杏子は勢いよく歩き出した。無機質な廊下にヒールの音がこだまする。慌てて乙訓が後を追ってきたが、杏子は事件の行方と同様、どこへ向かおうとしているのか自身にも不明なまま足を運ぶのだった。  ◆◇
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