奪還王と竜使いの王子の話

1/1

113人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 深い森の底には淡い木漏れ日しかさしこまなかった。暗い噂に満ちたこの場所に足を踏み込むことを、男以外の全員が恐れていた。男は小国の王族の一員だった。宰相の一族に国を奪われ、腹心の部下と少数の手勢で逃亡中だった。  王族とはいっても、男は身分の低い母に生まれ、これまで王位継承と無縁なまま騎士として王に仕えていた。宰相一族が王の首を取った時、たまたま都を離れていたために生き残ったのだ。  男の当面の目標は、王の縁戚が治める大国へ亡命すること、その次の目標は挙兵して自国を奪還することだ。しかし今は追われるまま、魔物が出ると恐れられる森をさまよっている。それ以外の道はなかった。  男は森の中まで追手が来ないことを願ったが、王族をひとりでも残せば禍根が残るとわかっている敵方はあきらめなかった。やがて追手の弓に男の腹心が負い、逃げまどう一行はついに道に迷ってしまった。  亡命先の大国のあいだにたちはだかるこの森には、恐ろしい魔物が棲むといわれている。隊商が使う道も森のはずれにしかない。だが男は魔物を恐れてはいなかった。騎士として育ち、魔法のたぐいと無縁だった男には、魔物も野生の獣とおなじようなものでしかない。獣はもちろん用心すべきだが、今は悪意をもつ人間の方が厄介だ。  そんなことよりも、男は自分自身に対して腹を立てていた。奪われた王国から差し向けられた追手をここに至ってもふりはらえず、腹心の部下の手当てもろくにできないことが苛立たしかった。  そうこうするうち、またも追手が現れた。傷を負った部下をかばいながらの戦いは苦しく、これで終わりかと観念したとき、どこからか飛んできたナイフが敵を殺したのである。  木立のあいだから現れたナイフの持ち主はまだ若い男だった。ようやく青年になったくらいの年頃で、商人のような風体である。男が追われていることも気にした様子がなく、怪我人の手当てをしてやろうと申し出た。この森の先にある郷へむかうところだったが、時間のかかる取引のために隊商の列からひとり遅れてしまったのだ、という。  男についてきた古参の兵士は商人を怪しいと疑った。 「暗殺者かもしれません。この森の魔物はひとに化けることもあるといわれています」 「だが我らに味方したのもたしかだ」と男は兵士にいった。 「もう日が暮れてしまう。どのみち他にやれることもない。俺は怪我人を見捨てるのは許さない」  その夜、男は腹心の部下の手当てに商人の手を借りた。その手腕は治療師にみまごうほどたしかなもので、部下の苦痛が和らぐと同時に兵士たちの警戒も多少は解けた。  商人がむかう郷はここから数日でたどりつくという。大国へ向かう前に郷でいったん休息をとればいいという勧めに男の一行は従うことにした。古参の兵士も、森に棲む魔物のことがいまだに気にかかっている様子だったが、商人はたしかに道を知っているようだったし、まだ若いにもかかわらず森を歩く姿は自信にあふれていた。  男の一行はそれから数日かけて森を抜けた。追手はもう現れなかった。そのかわり、昼も夜も、獣とも人ともつかない不可思議な唸り声をきくことはあって、そのたびに兵士たちは怯えた。男も怖れを感じたが、自分より若い商人が平気な顔をしているので、あえてそれを出さないように気を配った。王族としての矜持もあった。部下たちはただひとりの生き残りである自分を信じてついてきたのだ。弱いところをみせるわけにはいかない。  一行を案内する商人は、追手がかかる彼らの事情を察してはいるようだが、仔細にたずねようとはしなかった。商人にはまた、多少説明のつかないところも感じられた。この青年は兵士のようにナイフを使い、治療師のように人を癒すのだ。  明日の昼には郷につくと彼がいった夜のこと、男は奇妙な気配を感じて目を覚ました。部下は全員、不寝番すらぐっすり眠りこけ、焚火が小さな炎をあげている。しかしあの商人がみあたらない。  男は用心深く立ち上がった。梢のあいだからさしこむわずかな月の光を頼りに、木の根を乗り越えて森の中をすすむ。藪をぬけたとき、ふいに丸く小さな空間がひらけた。ぽっかり樹冠があいたところを空からさしこむ光が照らし、円筒形のふしぎな空間を作り出している。  奇妙な形をした影の前に商人が立って手をさしのべていた。  月光に照らされたその顔は、男がここ数日見慣れたものとはすこしちがってみえた。明るい色をしていたはずの髪は漆黒で、前にさしのべた手が影にふれる。そのとたん影がくわっと恐ろしげな赤い口をあけた。商人の手は影をたどるように動いた。男は驚きに目を瞬いた。商人の漆黒の髪が突然銀色に輝き、そこに影がまとわりつく。  男は金縛りにあったように動くことができなかった。異形の影を恐ろしいと思っても、喉は硬直して叫ぶこともできない。ふいに月が陰り、あたりは真っ暗になった。また月があらわれたとき、そこには何もいなかった。男の足はまた動くようになっていた。野営場所へ戻ると、商人は他の者からすこし離れたいつもの寝場所で静かに眠っていた。  自分がみたものは月光がつくりだした幻なのだろうか。男は悩みつつ、また眠った。  翌日一行は商人が案内する「郷」へついたが、そこはただの村里ではなく、森の真ん中に奇跡のように広がる小さな王国だった。森を抜けたとたん、豊かに実る農地を縫う道とその先の家並み、そして小さな城がみえたのである。  男の一行は喜び勇んで道を進んだが、ふと気がつくとここまで案内してきた商人の姿がみえない。腹心の部下は「役割が終わったと思って勝手に行ってしまったんでしょう」とどこか不快そうにいったが、男は昨夜のことも思い出し、穏やかな気持ちではいられなかった。  道を抜けるあいだ、すれ違う人々は一行に親切で、彼らが自分たちに害をなすなどと思ってもみないらしい。おとぎ話にでも迷い込んだような気持ちでいる中、ついに城の入口についた。迎えだという者が立っていて「ようこそお越しくださいました」という。男の身分も知っている口調に理由をきくと「先触れをいただきましたから」と答えた。  そのまま城の中に案内されて、一行はこの小さな王国を治めている王と王妃、そして王子や王女たちに出迎えられた。大国へ亡命する途中に一時の宿を借りたいのだと伝えると、承知している、滞在を歓迎する、といわれる。男の不審はつのるばかりだった。なぜ知っているのかとたずねたとき、もう一人の王子があらわれた。  王子の顔はあきらかに森の中で出会ったあの商人だった。しかし外見はかなり違っていた。髪は明るい色ではなく漆黒で、身分の高い者たちとおなじ服装でその場にならぶと、森で会ったときよりはるかに美しく、高貴な人物にみえた。 「これは第一王子です」そう王はいった。そして、別の王子を世継ぎだと紹介した。  長子なのに世継ぎではないのか。男は怪訝に思ったが、王族にはさまざまな事情があるものだ。第一王子の外見は父王にも妃にも、他の王子王女にも似ていなかった。男自身も、母の出自のために王位継承から外されてきただけに、それ以上の詮索はしないことにきめた。  いまや王子と正体のわかった若者に男の部下は頭を下げたが、王子は気にしたそぶりもなく、すぐにその場から姿を消した。  男の一行はしばらくこの小さな王国に滞在した。部下たちは十分な休息をとって傷を癒した。王国は農地と森の恵みで支えられているようで、人々の暮らしぶりは悪くない。城の周囲を散策しているとき、男は数回第一王子に出くわした。彼は王や他の王子のように城の中では暮らしていないという。城の裏側はあまり整えられているとはいえない庭園になっていたが、王子はその中に立つ塔で寝起きしているという。塔は庭園の中でもことさら手をつけられていない、野生の森のような樹々に囲まれていた。  部下の傷が完全に回復すると、男は王に感謝をのべ、ここを発つと告げた。男が出発する前日の夜、王は別れの宴をひらいた。城の広間で音楽と舞踏が繰り広げられる中、男は自分を助けてくれた第一王子にまだきちんと感謝を伝えていないのではないか、と不安になった。  そこで第一王子を探したが、広間の中にはみあたらなかった。男は城を抜け、王子が暮らす塔の方へ歩いて行った。  明るい月夜だった。塔の前まできたとき男は王子の影をみたと思った。あとを追って庭園に足を踏み入れた時、まず目に入ったのは驚くべき光景だった。王子は巨大な怪物の前にたたずんでいたのだ。漆黒だったはずのその髪はまばゆい銀色に輝いていた。  男は怪物をみたとたん反射的に腰の剣を抜こうとしたが、即座に王子の手がひらめいて、なぜか剣は男の足元に音を立てて落ちた。 「心配ない」  短く告げた王子の声は月の光のもとおごそかに響いた。 「このものたちは郷を護っているのです。彼らは竜の民。わたしはその長」  王子が手をふると怪物は静かに長い首をのばし、翼を広げて飛び立った。怪物を見送って男に視線を投げた王子は、言葉を発するのをためらっているように見えた。 「教えてほしい」と男はいった。「きみは何者だ」  王子はやっと口をひらいた。 「この郷の王族にはいつもひとりだけ、魔物をあやつる才能の持ち主が生まれます」  月の光に王子の銀の髪が照り映える。 「その才能は数世代おきにひとりしか生まれない。その者は他の王族よりずっと長命で、この国を護る使命を負っている。だからわたしは世継ぎではないのです。この小さな郷が、あなたがこれからおもむく大国に併合されずにいるのは、わたしの祖先が竜の民と契約をかわしたから」  男は告げられた事実に心の底から驚いたが、同時に王子の眸のなかに沈んだ孤独にも気がついた。思わず数歩足を踏み出して王子へ手をさしのべたのは、ひどく寂しげな相手を思いやりたいという、純粋な衝動にかられたせいだった。  騎士として鍛えられた男より王子はずっと細身だったが、腕に抱きしめるとつよい若木のようなしなやかさを感じた。男は王子の眸をみつめ、あらためて悟った。森の中で最初に出会った時から、自分はこの若者に惹かれていたのだと。 「きみが好きだ」男はささやいた。 「俺は行かなくてはならないが、いつかまたこの郷へ、きみのもとへ戻ってくる」  王子は男の腕を拒まなかった。男は王子の銀の髪をかきまわし、衝動にかられて唇をよせた。王子の唇は甘く、絡んだ舌と舌でさぐりあううちにふたりの体は熱くなった。王子は塔の中へ男を誘った。月の光が差しこむ簡素な寝室で男は王子の素肌に触れた。男の愛撫をうけとめて王子は甘い吐息をもらし、怜悧な美貌が薄紅に染まった。その様子は息を飲むほど淫靡で、男は月が空にあるあいだ、何度も王子を抱いたのだった。  男は翌日部下とともに出発した。  第一王子ではない、べつの道案内のもと、安全に森を抜けて、大国に亡命を果たした。大国の王や貴族の一部とは古い血のつながりがあったから、男の一行は暖かく受け入れられた。しかし宰相の一族に乗っ取られた母国について、明るい情報はすこしもなかった。  故郷では一部の領主が反乱を試みたものの、すぐに制圧され牢へ入れられるか、人質をとられていた。民は混乱し、作物の収穫もままならず、鉱山では無理な生産が祟って大事故が起きたという噂があった。悪い噂が広がるのを恐れ、元宰相である現国王は民の口を憲兵で封じているという。  こんな事態を放置するわけにはいかない。男は大国の権力者たちに働きかけ、兵をあげて自国を取り戻そうと画策をはじめた。  そんなある日、街中でおもいがけない人物に出会った。遠い異国の錬金術師の姿に変装した、あの小国の第一王子である。  それはたまたまの出会いだったのか、あるいは王子本人に仕組まれたものだったのか、男にはずっとあとになってもわからないままだった。男はその日、大海の彼方から訪れた異国の有力者をたずねていた。迷路のような路地をたどる帰り道で、すれ違った人物のかぶったフードから、はらりと銀髪の房が落ちたのである。  針葉樹のような爽やかな香りが鼻孔にただよい、男はすぐにあの夜のことを思い出した。月光のもとで王子を抱きしめた夜のことを。  男はフードの人物のあとを追った。その日は路地でまかれてしまったが、男はあきらめなかった。やがて王子に再会したのはなんと宮廷の宴会場だった。王子は異国の錬金術師に扮し、大国の貴族たちをたくみな話術で魅了していたのだ。  男が人の輪に近づくと錬金術師はたしかにあの王子のまなざしを男に注ぎ、人々がまばらになったあとでひと気のないバルコニーに男を誘った。この日は空に月はなく、男は黒髪の王子を抱きしめて口づけを交わした。  王子はこの国で何をしているのか、自分を追ってきたのではないか、という推測がただの男の願望、もしくはうぬぼれだったことはすぐに判明した。  じつは大国は長い年月のあいだ、王子の郷を隠すように取り囲んでいる森に何度も軍隊を送っていたのだ。森の中にあると思われていた鉱脈が大国の狙いだったが、いつも魔物や森そのものに阻まれ、不成功に終わっていた。 「森を制圧されればわたしたちはあっけなくこの国に併合されてしまう」  と王子はいった。だから彼は姿を変えてこの国に入りこみ、大国の注意を森からそらすために働いていたのだ。  男は王子の力になりたいと思い、実際にそう告げもした。しかし自国の奪還をもくろんで兵をあげようとしている今、口でいうほど簡単なことではなかった。というのも男への協力を承諾した大国の権力者は、兵を貸すかわりに森を制圧することを条件にしたからである。  さらに男の腹心の部下は王子との再会を喜ばなかった。男が王子と再会したことを打ち明けたのはこの部下ひとりだけだった。母国からともに逃れ、深手を負っても自分に忠誠を捧げてきた者である。だが部下は、男が王子に心惹かれすぎていると警告し、これもまた罠ではないか、と男に語った。 「以前から思っていましたが、あの者は危険です。人間を魅了する魔術を使っているのではありませんか」 「おまえは彼に命を助けられたのを忘れたのか?」 「わがきみ、俺が忠誠を誓うのはあなたひとりです。あなたが惑わされるのをみるには忍びません」  男は部下の言葉にとりあわなかったが、部下は独断で王子を罠にかけるべく動いた。この者は怪しげな錬金術で害をなすものと憲兵に密告したのである。男が気づいたときはもう間に合わず、王子は大国の権力者の手に落ちていた。  自国の奪還か、あるいは王子を助けるか。男は愛するふたつのものを天秤にかけるつもりはまったくなかった。だからひそかに王子を助け出そうとしたが、男が牢へ忍び込んだまさにそのとき、王子は人外のものに姿を変えて牢の窓から逃げたのである。  王子のゆくえが知れないまま、男は結局大国の軍隊に同行することになった。軍隊は森を制圧したのち、男の挙兵に協力することになっていた。  しかしこの行軍は何もかも、思惑通りに行かなかった。森に入ったとたん、恐ろしい数の魔物が軍隊を阻んだからだ。男は銀色の髪をした王子が樹々のあいだを駆けるのを目撃した。大国の兵士たち、男の腹心も死んでいく中、生きのびたのは男ひとりだけだった。  男は腹心の亡骸を埋葬しようとしたが、そのとき、彼が最後まで大切にふところにしまっていた書簡に気づいてしまった。それは大国の権力者との密約だった。  長いあいだ信頼していた腹心の部下は男に隠れて大国に通じていたのである。国を取り戻して男を王位につけたあと、大国の傀儡となるように男を操るつもりだったのだ。  男は思いがけない裏切りに呆然とした。いったい自分が信じていたものはなんだったのか。  男はふらふらと立ち上がった。兵士たちの亡骸をそのままに、人の心を失くしたかのように、森をさまよいはじめたのだった。  月が何度か欠けて満ちるあいだ、男は森の奥底で獣を狩り、草の実を食べ、小川の水を飲んですごした。  男が銀の髪の王子に再会したのは何度目かの満月の夜である。  王子はいつかのように、月光に照らされた森の中の空き地に立っていた。男をみとめると頬にさびしげな笑みが浮かんだ。 「わたしを恐ろしいと思ったでしょう。はやく森から出て、ひとの世界へ帰ってください」  王子の声をきいたとたん、男のなかに人間の言葉と感情が蘇った。男は首をふり、まっすぐに王子のもとへ歩んだ。 「俺はなにも怖くない。きみを愛している」  男は王子を抱きしめ、森の底でふたりは愛しあった。男の愛撫に王子が声をあげると、応えるように森のどこかで生き物が鳴き、樹々の梢はやさしく揺れた。王子の悦びを森全体が感じとっているかのようで、何度も愛をかわすうちに、男は自分もまた森に受け入れられたのを悟った。彼は王子に属するものとして森に迎えられたのである。  そのあと男はどうしたか。  日が昇ると彼は森を抜けてひそかに自国へ戻った。国を乗っ取った現王に反発する領主たちを辛抱強く説得し、やがて挙兵した。  最初のころ、ほとんどの人々は、彼が国を取り戻せるほどの勢力をもつとは信じなかった。しかし男が兵を進めるときは、いつも不思議な異形の生き物を駆る軍隊が伴っていた。軍隊は銀髪の若者に率いられ、およそ無敵の戦いぶりだった。彼らのことを男は「竜の民」と呼んだ。  男に力があると人々が信じるにつれて味方は増えていった。そしてついに宰相の一族は追われ、男は王位についたのである。  王国内外の情勢がおちつくと「竜の民」はいつのまにかいなくなった。王となった男にも気づかせないように、まるで空中に消えうせたように消えたのである。人々も彼らのことを忘れた。王国がかつての豊かさを取り戻すには、戦いに費やした以上の時間と努力が必要だった。日々の暮らしの苦難と平凡さの中に異形のものが存在する余地はなかったのである。  王となった男は周囲の勧めもあって、妻をめとり、子をなした。王国はやがてかつての繫栄をとりもどし、子供たちは大きくなった。男は齢をとった。  ある日妻が亡くなった。まだ引退するには早いと周囲は懇願したが、男は長子に王位を譲った。  そして旅に出た。  森はあいかわらず大きく、深く、恐ろしい噂で満ちていた。  かつて男を救った郷はまだこの森の中にあるのだろうか、と男は思った。かつて自分が「竜の民」と呼んだ軍隊のことを森の外の人間たちは誰ひとり覚えていない。長い年月がたって、男の記憶もおぼろげになっていた。この森で経験したことは、すべて不思議な夢の出来事のようにも思えた。  男はひとり森をさまよい、やがて道に迷った。年老いた体にとって森は親切とはいえなかった。太い木の根に足をとられ、何度か転んだ。足をくじいたか、骨が折れたのかもしれない。男は痛みで立ち上がれなくなった。  俺はここで死ぬのだろうか。  動けないまま、飢えて渇き、あるいは獣に襲われて。  男にはそれも悪くないように思えた。俺はもうじゅうぶん生きた。  そのまま夜になった。  真っ暗な森の底にひとすじの月光が差した。  銀色の髪が男の目の前に浮かび上がる。  王子は男の記憶より齢をとっていたが、男よりもずっと若々しかった。 「いったいここで何をしているのです」  その声は男の記憶にあるままだった。懐かしさと愛情と思いがけない喜びが男の胸のうちにわきあがった。これほど激しく心を動かされたのは何年ぶりだろう。 「道に迷ったんだ」と男はこたえた。 「きみを探しにきた。約束を果たすために」  月光のしたで王子は花のような微笑みをうかべた。いつかの夜にみたような寂しげなものではなく、深い確信にみちた微笑だった。王子は男に向かって手をさしのべ、男はその手を握りしめた。すると男の足から痛みが消え、ふたたび立ち上がることができた。  ふたりは森の中を歩いていき、みえなくなった。 (おわり)
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

113人が本棚に入れています
本棚に追加