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僕はある国際空港の出入口に足早に向かっていた。走りたい、猛ダッシュで一秒でも早く中に入りたい、でもそんなことをしたら警備員にたちまち捕らえられてしまう。
そこは南国の小さなエアポートで、入ってすぐにチェックイン・カウンターが見えた。数人の旅行客がいたが、僕はすぐに白いワンピースを着た髪の長い女性を見つけた。
「エミリ!」
カウンターで応対している女性と周りの旅行客が訝しげに僕を見たが、彼女は気づかない。
「エミリ!!」
もう一度叫ぶとようやく彼女が振り向いた。
「どうしてここに?」
「どうしてここに?」
互いに発した言葉に彼女は笑った。
「やっぱり私たち、気が合うわね」
僕は1年前にこのリゾート地に来てから、観光客を相手にダイビングのインストラクターをしている。このエアポートに来るのは入国の時、日本に帰る時、知り合いの帰国を見送る時だ。
まわりの観光客が大声を出した僕を見てざわつき出した。彼女は肩に下げたバッグからスマホを取り出し、時間を確認した。
「10分くらいなら時間があるわ」
彼女はフードコートに向かって歩き出し、僕はその後に続いた。
コーヒーショップのカウンターでアイスコーヒーを受け取り、テーブルをはさんで座った。
「さっき、呼ばれてもわからなかったのはね、私、もう『エミリ』じゃないの」
彼女はくすりと笑ってアイスコーヒーを口に含んだ。
「どういうことだよ」
「まあその前に、時間がないの。どうしてここってわかったの?」
彼女は僕の質問を遮り、話を促した。
「ここ数日、連絡が取れなかったから、さっき君のアパートメントに行ったんだ。そしたらいつもドアの横にあったブーゲンビリアの鉢がなくて、人気を感じなかったから、もしやと思ってここに来てみた」
「あなたって本当に頭がいいわね、勘は鈍いけど。ああ、もう少し来るのが遅ければ会わずにすんだのに」
「日本着の便の時間を調べて、急いで来たんだ」
「ありがとう」
彼女は笑みを絶やさない。なんだよ、ありがとうって、どういうことだよ。僕は彼女の気持ちがさっぱりわからなかった。彼女は名残惜しそうに周りを見回し、長い黒髪がさらりと揺れた。
「ここには違う自分になるために来たの。1か月限定で。本当の私は『エミリ』じゃないし、学生でもないし、……まあ、なんでもない自分になりたかったのよ。でも、あなたに名前を訊かれたとき、ここの呼び出しアナウンスで流れてた『エミリー』って名前を思い出して」
彼女は顔の横でパスポートをひらひら振った。僕はそれに手を伸ばしたが、彼女はすっとバッグの中にしまった。
違う自分になりたいという気持ちは僕にもわかった。
1年と少し前、日本で連日深夜まで働いていた僕は、会社に滅私奉公している自分に気づいた。毎夜、終電に乗り遅れないように駅まで走り、一様に能面のような表情をした乗客と、深夜の汗と酒の匂いに吐き気を覚えながら自分の将来を憂いた。学生時代からの趣味だったダイビングにも行けなくなっていた。
ある朝、会社への道すがら訳のわからない衝動が突き上げてきて、デスクにつくなり辞表を走り書きし、上司に突きつけて出てきた。とんでもなく無責任なことをしてしまったが、あの時の爽快感に勝るものは未だにない。
日の出とともに起きて、太陽が沈んだら寝よう。自然の中で生きていたい。そう思ってここに来た。
「私の現実に戻るわ。敵がいっぱいいる、『エミリ』じゃない、あそこに」
そういえば、彼女のことは何も知らなかった。互いの身の上話すらしたことがなかった。
僕たちは、ある日は一緒にダイビングをして、ライセンスの取り方やなぜ南の国の魚はカラフルなのか、人はなぜ青い海に心を惹かれるのかを語り合った。
またある日は夕陽を見て、なぜ夕陽は赤いのかを科学的に説明し合い、幼いとき習った童謡を歌い、大海に広がるマジックアワーの光景に息を止めた。
彼女の一つ一つの言葉は、時にこの国の自然のようにカラフルに宙を漂い、時に色を失い僕の心に重く沈んだ。僕はそんな会話を通して彼女のことをわかったつもりでいた。
「なあ、もう一度ここに戻ってこられないか? 君の環境も知りたい」
「ありがとう、でも無理。これ以上日焼けしたくないから」
彼女は手にしたアイスコーヒーを一気に飲み干した。
「冗談言うなよ、こんな時に」
すると、彼女は赤い目で僕を見た。
「『あなたのことを愛しているからここで暮らします、私の大部分は日本に置き去りにしたまま』、なんてね」
そして僕を試すように言った。
「あなたが日本に戻ってくればいいのに」
僕は言葉に詰まった。そんな僕の様子を見て、彼女は小さくため息をついた。
「ウソよ、あなたにはここが合ってる」
もう行かないと、彼女はスマホで時間を確認して席を立った。僕も立ち上がり、セキュリティー・チェックのある2階に向かう。
「ねえ、一緒にダイビングをした時、魚の話をしたの覚えてる? 知識が今ひとつだったから、しっかり勉強しておいた方がいいわよ」
「なんだよ、こんな時に」
別れの時間が近づいているというのに。
「最後のおせっかい。それから、夕焼けも愛情も儚いものだって言ってたけど、私は、儚く燃えた後に心に、こう……、残る愛情もあると思う」
彼女は固く握った右手を自分の胸に押しつけた。
「なんてね」
彼女は笑った。
僕は彼女を送り出すか引き止めるか、まだ迷っていた。彼女が一瞬でも止めてほしそうな仕草をしたら、手首を掴んで空港を後にしようと思った。
彼女は僕の肩に手をのせ、背伸びをして僕の頬に自分の頬をあてた。さよなら、と呟き、すっと身体を離した。
「君のことは忘れるよ。名前も知らないしさ」
彼女は微笑んで頷き、振り返りもせずセキュリティー・チェックをすり抜けていった。僕は、彼女が非日常と訣別する姿を見送った。
そのやりとりを見ていた係員が、チャーミングに首をすくめたのが目に入った。この場所ではきっとこんな恋人同士の別れの光景が日常的に見られるのだろう。
僕にとっては日常そのものの恋。せめてこの恋が、彼女にとって南の国の美しい思い出に変わりますように。エアポートを出ると夏の空はいつも通り眩しく、僕の孤独は一層影を深めた。
*La Fin*
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