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「お母さん! 何してるの?」
壊れた塀をまたぐと、私は雑草で覆われた庭に足を踏み入れた。
母はどうやら窓の外にある濡れ縁の上に立っている様だった。
「……柿がなっていたから取ろうと思ってここに登ったんだけど、やっぱり届かないのよね」
「……お母さん、ここは他所のウチだよ」
「だって誰も住んでいないじゃないの」
しれっとしてそう言う母の口調はいつも通りだった。ボケてしまってここに入り込んだ訳では無いのだろうか。
「それにしても、今の時期の柿はまだ硬くて食べられないよ」
私は思わずため息をついた。
「それがあったのよ。綺麗なオレンジ色に光っててね。こんな時期に珍しいな、って思ってついこんな所に入り込んじゃったのよね」
「ああ……もしかしてそれって夕日で光ってたんじゃないの?」
大きな柿の木が街灯の明かりを遮っていて、母がどんな顔をしているのかは良くわからない。けれど私には何となく母が素知らぬ顔をして明後日の方向を向いたのが見えた様な気がした。
「……そう言えばあなたも昔、猫を追いかけて他所のお宅の庭に入り込んじゃった時があったわよね」
小さかったのであまり細かい事は覚えていないが、猫を追いかけて迷子になってしまった事があった。気が付くと周りには誰もいなくて凄く怖かった記憶だけが残っている。
「あの時は凄く慌ててね。こっちは必死になって探していたのに、あなたときたらポーっとした顔で大きな木を見上げてたのよ。泣きもしないで」
そうだったっけ?
とにかくあの時は怖くてたまらなかった。見知らぬ庭の大きな木の枝が今にも襲いかかってくるような気がして足がすくんだ。確かに泣いてはいなかったかもしれない。恐ろしくて泣く事もできなかったんだろう。
でも今そんな話をするって事は、こっちが必死になって探してたってわかってるって事だよね……。
「とにかく家に帰るよ」
私は大きく息を付くと母に背を向けた。
それでも母は動く気配は無い。
「……怖いのよ」
母はモジモジしたように小さな声でそう言った。
「はい?」
「だって足元真っ暗じゃない。怖くてここから降りられ無いのよ」
そう言われて私は足元に目をやった。確かに街灯の明かりが届かない足元は真っ暗で、辛うじて雑草に覆われている事がわかるくらいだった。それでも、それらは私の膝までも届かない位、せいぜい二十センチ程度だ。
母にとってはそんな物が怖いのか。
「でも、自分でそこまで行ったんだよね」
「だってその時はまだ夕日で明るかったのよ。オレンジ色に照らされて綺麗だったの」
「ここにあるのは、ただの草だよ」
そう、ここにあるのはただの草だ。生命力に満ち溢れた恐ろしい生き物では無い。今はただの黒くて細長い影だ。私にとっては日の光の下で見るそれらの方がよっぽど恐ろしい。明るい日差しの下だったら、おそらく私はこんな所に立ってなんかいられないだろう。二十センチだって植物は植物なのだ。
「でも怖いものは怖いのよ!」
母は子供の様に叫んだ。
「……そうだよね」
怖いものは怖い。理由なんて無い。ただの草だって言われても、ただの木だって言われても、私にとって植物は恐ろしい。
だけど……。
私は母の腕を取ると力強く引っ張った。バランスを崩した母は濡れ縁から飛び降りる形になった。
ズサリと草を踏みつける音と、母の「ぎょええー」という変な叫び声がほぼ同時だった。
彼女は老人とは思えない素早さで庭から飛び出していく。
「親に向かってなんて事するのよ!」
私は苦笑いを浮かべながら壊れた塀をゆっくりと乗り越えていく。
「だってさすがにお母さんをおんぶなんてできないよ」
「それにしたってもっとやり方って物があるじゃない!」
母は明かりのある通りに出て少し安心したのか、威張った様にそう言った。
「まあ、今度スーパーで柿買ってあげるから」
「今の時期柿なんて売って無いでしょ」
自分は木になっていると勘違いしていた癖に、母は拗ねた様にそう言った。
「じゃあ、柿ゼリー」
「柿ゼリーなんてスーパーで売ってるの見た事無いわ」
「じゃあ、何か似たようなゼリー」
私は母の小さい背中に腕を回すと、ゆっくりと歩き出した。
「もう、美菜子はいい加減なんだから……」
「お母さんの娘だからね……」
街灯の灯る薄明るい通りには、私がさっき蹴飛ばした緑色の柿の実が転がっていた。
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