第1章

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 10月中旬。この時間帯は夕方じゃなくて夜だといった方がいい。会社周辺は工場が休止するととても静かだ。山沿い一車線の県道と民家や畑が(まだら)にあるだけ。岐阜の不便なとこは最低限必要なものしか無いところ。良いところは余計なものが無く静かなところ。  階段を降り、自販機の灯りへ向かって足を運ぶと人影が揺れるのが見えた。それに近付く程に歩調が緩む。  左手に持っている“初級レベル”のとこまでしか目を通してない教科書を、歩きながらリュックの肩紐を片方外し元に返して呼吸を整えた。  こんな事、半年ずっと僕の勝手な妄想(最終的に毎回必ずエッチな展開へ持ち込む妄想)だけで実際起こるなんて事無かったのに、今日に限ってとか神様の悪戯としか思えない。まさかこんな変な時間にこんなとこで会えるだなんて。  人影の正体は意中のあの子だった。  目が合ってしまったから逃げるのは気まずい……っていうか勿体無い。エッチな展開を絶対意識しないように彼女へと近付いていく。 「こんばんは七星さん……」  敢えて貴女の名前知ってますよアピール入れて然りげ無く挨拶したつもりだけど、言った後、ストーカーみたいで気持ち悪いなと思った。 「こんばんは。加藤さん」  反らしてた僕の顔を覗き込む様に挨拶を返してくれた。しかも僕の名前を七星さんも知っててくれた。そこらへんに幾らでも転がってそうな名前なのに。  とはいえ、顔を直視できない。身体もどこ見てもエッチな妄想が復活しそうで見れない。それくらい半年間分の想いが溜まってる。彼女が手に持ってるはちみつレモンは一体どれくらい残ってるんだろう。もしも既に空の状態だったら、そのまま缶を捨てて帰っていってしまう。  今、ここでなら誰にも見られてないし、出来るだけ僕の事を覚えて欲しい。出来るだけそばにいたい。  何年か前にヒットした男女入れ代わり系のアニメ映画と同じ台詞だけど、リアルにこんな気持ちになる時あるんだと思った。 「それ……美味しいですか」  今まで何本飲んできたんだと心の中でツッコミ入れながら震える指で自販機のボタンを押す。「はい。私は好きです」って頷いた彼女の反応に一瞬で身体全体に電流が走った。『好きです』ってはちみつレモンの事で、僕の事言ったわけじゃないのに。 『私服可愛いですね』って言いたかった。 『下の名前教えて頂けませんか』って聞きたかった。 『休日は何して過ごされてるのですか』ってずっと気になってた。 『血液型何ですか』女子みたいな事言ってるけど相性占ってみたい。 『好きな食べものは何ですか』無難だけど重要な質問だと思う。  ちゃんと次会えた時に繋げていける様な会話を。  何を聞けば気持ち悪いって思われないか安全な質問を考えて考えて考えた挙げ句―――― 「好きな色は何ですか」  聞いても聞かれてもただ漠然とした当たり障りの無い質問。 「水色……」  僕の目を真っ直ぐ見て返ってきたこたえはこれだった。12色……いや36色それ以上? たくさんある色の中から彼女の選んだ色が僕の乗ってる車の色だった事が無性に嬉しかった。  流石に妄想でやった身体に触れる事なんて一触りも起こらなかったけど、BGMの無いこの2人だけの空間を約10分間楽しめた事、それだけで十分だった。  そして彼女は手に持っていた缶を捨てて帰っていってしまったんだけど、僕に会った時から、缶に1度も口を付けて無かった事が嬉しかった。
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