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翌日。
朝早くに氷魚は海に出た。昨日の堤防からは少し離れた砂浜に立つ。堤防に行かないのは、この時間は釣り人が多いから。朝の散歩はいつもこちらだった。
朝の海は、少しくすんで、冷たく見える。冷たく感じるのは、風が冷たいからだろうか。それとも日の光が遠いからか。
辺りはまだ、少し薄暗い。
遠くには船がいくつか見える。
いつもはサーフィンをする人がちらほら見えたりもするが、今日は姿が見えなかった。
砂浜には降りず、海を遠くに見つめる。
ふと見下ろした砂浜からほど近い場所から、ゆらりと影が立つ。それは突然、海から現れたように思えた。
ダイバーやサーファーが海面に顔を出す時や、イルカや鯨が海面に姿を現す瞬間にも似た動きだった。飛沫を上げて、姿を覗かせる。
ちょうど昇り始めた日の光に照らされてその光景は息を呑むほど神秘的なものに見えた。
氷魚は、思わず息を呑んだ。
キラキラと光を弾きながら、それはゆっくりと波の上に落ちて行く。
氷魚は目をこらす。それが飛沫に紛れて見失わないように見守った。
目を見張って見つめながら、よぎった二種類の予感に仮説を立てる。嫌な方でなければいいと思った。
家に戻るか人を呼ぶか、周りを見渡し迷って、砂浜に降りることを選ぶ。
目を離さないようにしながら、慣れた足付きで軽快に、スタンプを押すように足跡を残していく。
一度は持ち上がったそれは、大きな魚影のように打ち寄せる波に乗って、ゆっくりと近付いてくる。
嫌な方の予感も脳裏を掠めて、戻るべきだったかと周りを見渡すが、人の気配はやはりない。
けれど、波間で光を放つその色に目を取られた瞬間、そんな考えは捨てた。
波打ち際に足が触れないぐらいの距離まで足を進める。
寄せては返す波にあらがえないかのように、影は波打ち際まで上がってこない。
夏には海水浴場にもなる砂浜の近くに大きな岩場はない。引っかかることはないだろうが、動かないのが気になった。
距離が近くなると、それが大きな魚でないことだけは明白で、その色に覚えがなければ氷魚は即座に足を返して人を呼びに行っただろう。
けど、水面で海藻のように揺れて輝くその色に既視感があった。ちょうど、昨日見たばかりの。
「昨日の子?」
海に向かって、呼びかけてみる。
大きな声を出すのは、あまり得意じゃなかった。
聞こえなかったのか影はやはり動かない。
意を決して靴を脱ごうとした時、ぱしゃりと何かが跳ねるような音が聞こえた。
影の近くで波紋が立っている。微かに、指のようなものが波の狭間に消えていくのが見えた。
靴を脱ぐのをあきらめて、海の中へと駆け出す。
胸の辺りまで水面が顔に近くなると、大きく息を吸い込んで水の中へと潜る。水中で目を開けてみて、やはり。と、地面を蹴って水中を進む。
ほどなく影の正体に辿り着き、力なく地上に伸びた腕に手を伸ばして掴んだ。掴んだ腕は細い。
一度、海面に顔を出して息継ぎをして、もう一度潜る。水の中、沈んだマネキンのような白い顔を軽く叩いてみる。
閉じられていた目がゆっくりと瞬く。
深海の色をした瞳が、うつろに氷魚を映して、光が灯る。
もう片方の腕を差し出すと、空いた手の指先が彷徨うように伸ばされる。その手を強引に掴んで引き寄せて、氷魚は自分の肩に回す。相手の体を背追うようにして、海岸の方へと引き返した。
砂浜に手が届くところまで辿りつき、濡れた服と体の重みを体感する。完全に陸に上がるのはまずかろうと背中の相手をゆっくりと下ろした時、その体の異変に気付く。
昨日は確かに、尾びれが存在した下半身に、自分と同じものがあった。すらりと伸びた、二本の足は顔や手と同じように作り物のように白く、陶器のようだ。
ぎょっと息を呑んで、首を振る。背負い直して、完全に岸に上げると濡れた上着を脱いで相手の腰に巻く。そして改めて意識のない相手の手を肩に回し、足を抱えて背負い上げる。
そのあまりの軽さに、驚いた。
今朝出てきた叔父の店舗兼住居ではなく、その近くに借りている自分のアパートに足を向ける。
古いアパートの鉄骨階段をなるべく音を立てないように登って、玄関の扉を開ける。
台所の流しの棚に体を預けるように相手を座らせて、玄関を閉めた。腰に巻いた自分の上着を取り上げると、床が濡れるのも構わず洗面所に向かう。素早く服を脱いで風呂場に放り込み、タオルで軽く体を拭うとバスタオルと一緒に複数枚、新しいタオルをひっつかんで玄関に向かう。
背中を覆うように肩からバスタオルをかぶせ、体を包む、濡れた髪をフェイスタオルで水気を切る。
頬に手を当てると、完全に冷え切っている。
「あたため……た方が、いいのかな……?」
呟いた時、ぴくりと白く細い指先が動いたように見えた。
震える睫から小さな滴が頬を伝い、流れる。
思わず指先で滴をすくい取るように拭いかけた時、
「っ……」
一度目映そうにぎゅっと瞑られた瞳が、ゆっくりと開いた。
「大丈夫? 苦しい? 話せる? 寒い? 暑い?」
矢継ぎ早に短い質問を投げかける。大きく開かれた瞳が、ぱちぱちと瞬く。
「だい、じょぶ」
不思議そうな瞳がぐるりと天井を見渡した。
「動ける?」
そう訊ねると、身体を起こす。自分の足下に視線を向けた。
不思議そうに足を眺めている。
「あのさ、風呂には入れる?」
氷魚は我ながら変なことを聞いていると思う。どう考えてもこのタイミングではないということもわかっていた。
けれども、氷魚にとっても限界だったのだ。
「ふ、ろ……?」
聞き慣れない言葉みたいに繰り返す。
「うん。お湯入れるけど、浸かれる?」
首を傾げ、小さく横に振る。その仕草や、覚束無い口調は、まるで子供のようだ。
「わかった。ごめん、じゃあそのままで悪いけど、少し待ってて」
再度浴室に向かい、湯船に栓を入れて蛇口からお湯を出す。
その湯でタオルを湿らせて、その子のところに戻り、それを差し出す。
「身体、拭いておいて」
差し出されたタオルにおずおずと手を伸ばした。その子の指先が湯気に触れ、弾かれたように身を揺らし、手を引っ込める。
「ごめん、熱かったかな」
タオルを広げ、全体の熱を確認してみる。パタパタと仰ぎ、少し冷ましてもう一度軽く畳む。
「触れるようになったらでいいから」
と床に置こうとした時、もう一度彼の手が伸びてきて、タオルにそっと触れた。
両手で受け取り、眺め、くんと鼻先が動く。恐る恐る頬に当ててみるといった様子から、その熱を感じ入るように顔を押し付け、ほうっと胸元から大きく息をつく。うっとりと目を閉じる。
その姿に、氷魚も胸を撫で下ろす。同時に、背筋を走りはじめた悪寒に、為べきことを思い出し、踵を返した。
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