溺れる鳥と飛びたい魚

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 ゆっくり、とは行かなかったが充分に身体を温め、浴室を出る。  タオルを頭から肩に垂らし、ジャージの下だけを穿いて、部屋に戻った。  置き去りにしたその子は、台所の前で裸のままぼんやりと天井を見上げている。 「身体は拭けた?」  そう言って手を差し出すと、困惑したように目を泳がせた。  手に持ってるタオルだと気付いて、それを手渡してくれる。すっかり冷えて、冷たくなっている。  氷魚は傍らに片膝をついて、訊ねた。 「触っても平気?」  こくんと頷くのを確認し、失礼。と声をかける。そっと二の腕の辺りに手を添え触れてみた。  さっきよりもぬくもりを感じる。  二の腕から肩の方へと手の甲で撫で、肩にかかった様々な見え方をする白銀色の髪を一房、指で摘まむ。  水は滴っていないが、まだ濡れて、少しべたついている。背中の方も同じだった。 「改めて聞きたいんだけど、君は昨日の子……だよね?」  その子はくるりとこちらに首をひねって、大きく二度頷く。  氷魚は、そっかと呟いて笑う。  片手で髪を掻き上げ、持っていたタオルで首筋から肩を撫でながら、問いかける。 「冷たくない?」  肩越しに視線を向けながら首を縦に振るので、氷魚は自分の首にかけていたタオルをそのまま背中を拭く。 「前向いてていいよ。もし、やだったら言ってね」  と投げた言葉にも、おとなしく従って首をこくりと振った。  あらかた背中を拭き終え、声を掛ける。 「拭けたよ。もう身体はベタベタしないと思うんだけど」 「あり……がと……う」 「んや、こっちの都合だから。その都合ついで、で申し訳ないんだけど、ちょっとこっち来てもらってもいいかな。立てる?」  手にしていたタオルを丸めて流し台の中に投げ込む。 「ゆっくりでいいから。足、動かせる?」  こっちから、と片足を手で示す。膝を指す、 「ここが、膝。曲げられる?」  言いながら、氷魚は自分の膝を軽く曲げ伸ばししてみせる。  まじまじとそれを見比べる。そして、ぎこちなくだが徐々に、足に力が込められて行くのがわかる。  その動作を促しながら、聞きそびれていたことを訊ねる。  「そういえば名前、聞いてもいい?」  その子は何か言葉を発したようだったが、それは不思議な音に聞こえただけで上手く聞き取れなかった。 「……ごめん、もう一回言ってもらってもいい?」  動作を止め、氷魚の方に向き直りはっきりと唇を動かす。  二度目もやはり、人の喉から発せられているとは思えない、不思議な音が聞こえただけだった。 「悪い。やっぱ俺には聞き取れないみたいだ……」  氷魚は手で口と顎回りを考え込むように覆い、視線を落とした。  いくらかの間の後そんな氷魚の腕に、そっと手が添えられる。滑らかな感触に気付いて視線を上げると、不安げな瞳と目が合う。 「あ、ごめんね」  見つめられ、改めてその端正な顔立ちを氷魚も見つめる。こちらに向けられた表情はまるで捨てられた小動物のようで、思わず手を伸ばしたくなる。  手を伸ばしそうになって、目的を思い出す。  はたと気付くと、目線の下の両足はしっかり曲げられ、"三角座り"の姿勢ができている。「気付かなくてごめん、頑張ったね。痛くない?」  それまでと同じようにこくりと頷いて見せるので、笑いかけ、ねぎらうつもりで軽く肩を叩く。  氷魚は体制を変えると、踵と足先の名称を言いながら指し示す。 「今度はここにも力を入れて」  と、先に自分が立って見せ、 「手、出して」  と顔の前に氷魚の手を差し出す。  まん丸な瞳で氷魚の顔と手を見比べて、差し出された両手をぎゅっと掴み、持ち上げるように引き上げる。  やはり軽い。だが、と首を傾げた。  よろけそうになるのを支えながら、二の足でしっかりと立たせる。 「足はつらくない?」  バランスを崩さないようにと気を配りながら、握った手の指を緩めてみると、強く握り返された。少し驚いた氷魚の目に、酷く不安げに揺れる瞳が不安定な海のように映る。 「うん、じゃあこのまま、ゆっくり。誘導するから、歩いて」  一歩ずつ後ろに下がりながら、浴室の方へと向かう。  本来ならほんの数歩の距離だが、ほんの少しの段差にも気を遣いながら歩くのは何年ぶりだろう。  浴槽の中に椅子を置く。 「この中に入って、椅子に座ってくれる? 滑らないように気をつけて」  両手を離し、浴槽の縁に捕まりながら中へと足を踏み入れる。  こちらに背を向けて座ってもらい、背中に当たる縁の部分にタオルを掛け、そこに頭を預けてもらう。 「そういえば、自分の名前を名乗ってなかったね。俺は氷魚≪コマイ≫。氷の魚って書いて、コマイって読むんだけど、みんなには氷魚≪ひお≫って呼ばれてる。好きな方で呼んで」 「こ、まい……?」 「うん」 「氷魚……」  繰り返し呼ばれることも、その名前で呼ばれることも何だか慣れなくて、むず痒いような心地だ。  そっと目線を合わせる。  さっきから呼びかけようとしてみては、さっき聞き取れなかった名前がわからなくて悩んでいた。どうしようかと考えあぐね、聞いてみることにする。 「君のことは、なんて呼ぼうか」   シャワーからぬるま湯になるまで温度を調節し、触れてもらって平気かどうかを確認する 「頭なるべく動かさないで。熱かったり、嫌だったら教えてね。掛けるよ」  お湯が顔にかからないようにしながら、海水で固まってしまった髪をほどくよう丁寧に根元の方から流していく。  シャンプーでしっかりと洗い、コンディショナーで整えると、べたつきもなくなり、指通りもよくなる。  氷魚が頭を流し、タオルドライしている間に、軽く顔もお湯で洗ってもらう。  濡れた顔を拭いて、髪をドライヤーで乾かしながら指で梳く。  ドライヤーの音には驚く様子を見せたが、頭を撫でるようにしながら髪を乾かされるのは嫌ではないようだった。  きめ細やかで柔らかく、感触の良い髪を撫でるのは、氷魚も心地がいい。光の加減で変わって見える不思議な色の髪は、風で揺れると一層輝いて見え、思わず引き寄せられそうになる。 「氷魚」  遠慮がちにTシャツの袖を引いて、その子は初めて自分から口を開いた。  どきりと我に返って、少しばつが悪いような思いがする。  見透かされてしまったような、悪戯が見つかりそうになったような。 「好きに、呼んでほしい」  けれど、紡がれた言葉は意外なものだった。  血色のよくなった唇が、思っていたよりもしっかりとした声と言葉で、言う。 「好きに……か……」  氷魚は名前をつけてもいいということだろうか、と考え込む。  ほどなく、答えは固まる。 「ヒタキ」 「ひたき?」 「うん。ヒタキ、でどうだろう。あ、嫌だったら……」  と、代案を考えようとすると、大きく首を振る。 「ヒタキ、が、いい」 「よかった。よろしく、ヒタキ」 「うん。コマイ」
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