第二章 母親から生まれていた時代

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 左右の壁に三つずつ、計六つの扉。  こちら側からだと、塔崎さんと出会ったラウンジは右の中央に位置する。 「私、右側の部屋調べる。笹島くんは反対側を」 「オーケー」  手分けして調べることにする。  まずは左側、手前の扉。    塔崎さんが右側手前の部屋に入るのを見届けてから、左側手前の扉を開ける。  中は会議室のようだ。  部屋の中央に長方形のテーブルが置かれ、デスクチェアーが各々好き勝手の方を向いて静かに佇んでいる。テーブルの上には倒れたマグカップ、食べかけのホットドッグなどが置かれており、ラフな会議だったことを窺わせる。  テーブル近くのホワイトボードには化学の授業で習ったベンゼン環にいくつも枝がついた化学記号が描かれている。  床には多くの書物が転がり、当時の混乱が伝わってくる。  生きている人間はいない。しかし死んでいる人間はいる。  隅の方で白衣を着た若い大人の男性が二人倒れている。ピクリとも動かない。等身大の人形に見える。  一人は仰向け、もう一人はうつ伏せだ。  仰向けの男性の胸、うつ伏せの男性の背中に同じような刺し傷がある。白衣は彼らが流した血で汚れている。  テーブルの上の古い書物はほとんどが英語で書かれている。  その中に日本語で書かれたものを見つけて手に取る。 【徹底考察! 第三次ベビーブーム到来により社会はどう変わるのか】  第一次ベビーブームが起こったのは人類に幸福を噛みしめる余裕が出来たからだ。  第二次世界大戦が終わり、帰還した男性たちは徳川家から臨時金を受け取り、こぞって子供をつくり出した。街中で揺籠が揺れる光景は平和の象徴として、大戦で疲弊したこの国を徐々に癒していったことは言うまでもないだろう。  しかし2010年代から一転した。  度重なる増税やリストラで家庭への負担が増大したことで、若い夫婦は子供を授かることに躊躇いを覚えざるを得ない状況だった。  それに加え、先の第一・二次ベビーブームの子供はとっくに高齢期を迎え、ますます若者は保障制度が充実した海外に憧れの眼差しを向けるのだった。  いわゆる2025年問題、2040年現象だ。  この2040年を境にこの国で母親のお腹から生まれて産声を上げる子供がいなくなる。徳川財閥直系企業主導による『試験管ベイビー計画』がついに始動するからである。  第三次ベビーブームの到来だ。  その先は難しい言葉やグラフが続いているので、読むのをやめた。  へその緒を見せられた記憶がある。  小さな桐の箱に入ったカサブタみたいなものだった。口うるさく嫌いだが、俺には両親がいる。  それは今後貴重な体験となるようだ。  ごそり、と音がした。  驚いて振り返るが、異常はない……。  散乱する書物。  横たわる二つの仰向けの死体。 「……?」  の死体?  片方の死体がのっそりとした動きで起き上がった。  目が合う。白濁した両目が生を求めるように向けられた気がして、金縛りにあったように体が硬直する。  びくんと痙攣しながら、ぎこちないロボットのような動きで、生まれたての小鹿よろしく、頼りない両脚で立ち上がる。 「こ……こ……」  くぐもった声が漏れる。 「は……ど」  起き上がった死体の背後に伸びる、一本の粘着質な触手。  ゆらりゆらりと上体を揺らしながら、こちらへゆっくり近づいてくる。背中から数滴の血液が滴り落ちる。  手にした金属腕を握りしめる。武骨な冷たさが熱に変わっていく。  触手がうねうねと動く。見たことのない光景に徐々に体が小刻みに震えだす。 「くるな……」  警告するも、止まる様子はない。  徐々に後ずさり、背中が壁にぶつかる。  咄嗟に金属腕を構え、振り下ろす。  ごつ、という鈍い音がして触手死体が背中を向ける。  血が滲んだ白衣。傷から覗く触手。  傷口の中心から視線を感じた。  背筋が凍りつく感覚が走り、半ば錯乱しながら金属腕を何度も振り下ろす。 こちらを見つめてきた『視線』の主に向けて、まっすぐと。  ――ぎゅうううううううううういいっ!  奇怪なうめき声。  この世のものとは思えない咆哮。  一層激しく脈打つ触手。それが肩にぶつかり、生々しい感触が伝わってきて、辛うじて保っていた理性が崩壊する。  ここは宇宙ステーション。地球の外だ。地球の常識など通用しない。  足元から崩れ落ちるような感覚をかき消すように、金属腕を振るった。
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