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第二章 母親から生まれていた時代
遠くでサイレンの音がする。
亀裂が走った校庭。
よく見るとそれは精巧につくられた液晶パネルのようだ。
触ってみるとかなり分厚い。先程までは奥行きが自然に感じられていたけれど、今ではハッキリと目の前の校庭が『ハリボテ』だとわかる。まるで時代遅れの静止画のように。
ポケットに入った携帯端末が頼んでもいない定期ニュースを配信してくる。
【江戸幕府誕生四百四十年特別展、上野で開催中! 現首相の喜彦氏も来場】
今年は実にめでたい年だ。安泰の世を切り開いた江戸幕府が開かれて四百四十年。数字を見て中途半端だと思う人もいるかもしれないが、本家分家からすれば些事に過ぎない。
特に零(0)は人々が手を取り合って世を築いたことの象徴とされ、その中心にいるのが他でもない家康公であるからと他の節目の年以上に本家分家の気合が伺える現場からのインタビューをお届けする……。
人々が手を取り合ってゼロでは何も生んでいないじゃないか。
【笹島新羅様 バイタルに乱れが生じています。ゆっくりと深呼吸をどうぞ。スーハ―】
お前のせいだと毒づき、端末をポケットに仕舞う。
目の前の空洞。
黒い卵だと思ったそれは『ハリボテ』の向こう側の世界を垣間見る覗き穴だ。
モニターで点滅する『emergency』を見つめていると、再びバイタルに乱れが生じたことを告げるように端末がバイブした。
振り返り、教室を見つめる。
多くのクラスメイトが机に突っ伏して動かない。
それらがただのモノだと気づくには、いくらか時間を有した。いつから? そんな空虚な思考のもと、恐る恐る近くのクラスメイトの右腕に触れてみる。
無機質でひんやりした感触が背筋を駆け巡り、力なく床に落ちる右腕。
窓際の席の真面目だったあいつも、教卓の前で漫画を読んでいたあいつも、等しく動かない金属の塊と化している。
精巧な箱庭で飼われているのは今や俺だけで、喪失感や虚無感を分かち合える他人がいないことがこんなにも胸を締め付けるとは知らなかった。
「間宮……間宮っ!」
目の前に広がる圧倒的な空虚さに押しつぶされる間際、心の拠り所だった幼馴染の名前を呼ぶ。
種明かしが済んだ箱庭において、出番は終わったとばかりにちらつき始める蛍光灯の気紛れな灯りのもと、彼女はひどく疲れたようにぐったりと机に突っ伏していた。
「機械に何を習うってんだよ。なあ?」
機械の先生は教壇の上で変わらず立ち、首をぐるんぐるん回している。準備運動かメンテナンスの時間だろうか。
その時だった。
間宮の身体全体がびくんと脈打ったかと思うと、すぐにまた先程の態勢に収束した。
「どこか痛いのか?」
満ちていくものを感じる。光が差し込むのを感じる。
間宮は生きている。
動かない奴らと違って、彼女は動いたじゃないか!
顔をあげた間宮は黒板をじっと凝視する。
真面目に板書しても評価してくれる先生は何やら取り込み中だけど。
こちらに向き直る間宮。
「な……」
そして気づいてしまった――彼女も同類だということに。
目の前にあるひどく光沢がある顔の額に大きく穴が空いていて、内部で火花が散る。
左目から弱い光が漏れていて、右目は真っ黒だ。
綺麗な黒髪だった筈の頭にはミミズのような細いケーブルが何本も生えていて、先端から白色の滴が落ちる。机には既に水たまりが出来ている。
間宮の顔がどのくらい綺麗で、可愛くて、胸を穿ったのか、もはや思い出せない。
「あ……ア……イ」
目の前の醜悪な金属体が何事かを呟こうとしている。漏れるものは声ではなく、大半が空気なので言葉になる前に霧散していく。
『パーソナル……データ……消失。常世システム……アクセス……ダウン……ロー……アクセス不可。初期化します……』
突然の加工音声。
明らかに彼女の声ではない。
思い出の声さえかき消すように、サイレンは遠くで鳴り続けていた。
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