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暗がりに身を浸していると、いまでも思い出す。
子どもの頃、真夜中。
ふとベッドの中で目を覚まして、暗闇に怯え、僕は泣いている。枕を口元に当てて、身を隠す仔ねずみのように体を小さく丸めて。
かつて僕は暗闇を恐れていた。苛烈で、本能的な恐怖だった。自分ではどうしようもなかった。
僕のような子どもの話を聞いたとき、たいていの人は寛容を示すと思う。可愛げがあると言って微笑ましい顔をしたり、子どもというのはそういうものだと共感することさえあるだろう。
だけど、特定の僕個人の話を聞いたとき、奇異の目を向ける人はきっと少なくない。仕方のないことだ。僕自身、自分のことを子どもながらに異様だと考えていたくらいだから。
物心がついてから、つまり記憶がはっきりし始めた時点から、僕は随分長いあいだ暗いところを恐れ続けていた。怯えて泣く子どもという肩書きに羞恥を感じるようになってからも、ずっと。
それなりに男性的な形質を獲得し始めた小学六年生、思春期の端緒に触れ始める歳になってなお、僕は自己を蝕む恐怖心と向き合うことができなかった。眠るときは電灯を煌々とさせたままベッドに入り、深夜に目を覚ませば、涙を浮かべながら丸くなった。僕の部屋を暗くするのはいつでも父か母だった。電気代がもったいないと何度お小言をもらったか知れない。隠し通そうとしていた僕は、親にさえ言い出せなかったのだ。
暗所恐怖症という言葉を知ったのが、十二歳の誕生日を迎えた少しあと。その病的な症状の治療法を教えてくれたのは両親でも、ましてどこやらの医師でもない。
ひとりのクラスメイトだった。
◇◇◇
そのとき、僕は平気な顔をしながら、だけど内心ではずっと冷や汗をかいていた。文化祭の出し物が決まりつつある。ほとんどの男子と、女子の三割ほどが手を挙げていた。ひと目見ただけでクラスの大半が挙手しているとわかり、教壇に立つ委員長は票を数えることすらしなかった。
「じゃ、うちのクラスはお化け屋敷ってことで」
黒板に書かれた他の候補はざっと消され、教室のあちこちで快哉の声が上がった。男子の声のが大きい。前の席の友人が振り返って、「イエーイ!」と陽気にハイタッチを求めてきた。僕はそれに元気よく応じた。本当はきりきりと胃が痛んでいたけど、喜んでいるふりをしていないと不自然だったから。
僕の通っていた西小学校には文化祭が、年に一度、秋にある。ちなみに正式には『西小こどもまつり』というイベントなのだけど、『こどもまつり』という名称の絶妙な幼稚さが気に入らなくて、だいたい四年生くらいからみんな文化祭という呼び方をするようになる。右にならえで僕もそうしていた。
文化祭では、三年生より上の学年はクラスごとに出し物をしないといけない。鉄板は模擬店、脱出ゲーム、劇、文化展示……それから、お化け屋敷。暗いところが苦手だった僕はお化け屋敷だけは絶対に嫌だった。六年になるまではずっと避けられていたのに――お化け屋敷という出し物は、賑やかな男子のあいだで人気が出やすい。残念なことに、うちのクラスは学年で一番騒がしかった。
出し物が決まってもホームルームは続く。下校時刻もそれなりに迫っていたので、細かい役回りまで決めることはできない。委員長は黒板に受付、列整理、お化け役、と大まかな三つの役割を書き足した。
「定員は……受付が四人。列整理も、四人いるよな。午前と午後でふたりずつ。まあ、そんなもんだろ。そんで残りがお化け、っと」
委員長は早々と、お化け役の下に自分の名前を書いた。
「とりあえず希望取るぞー。やりたいとこ決まった人から書いてって」
教室が色めきだって、黒板の前はごった返す。僕は席に着いたまま人気どころがどこかをじっと見つめた。しばらく待ち、クラスメイトがあらかた席に戻ってから立ち上がる。
やはり圧倒的に人気なのはお化け役だった。受付と列整理には数人ずつしか希望する人がいない。ただそのどちらも、すでに定員はオーバーしていた。四人分の枠なんて不人気でもすぐに埋まってしまう。僕は白色のチョークを手に取り、お化け役の欄に自分の名前を書いた。――そこに書くしかなかった。男子のほとんど、僕の友達も含めて、みんなそこを希望していたから。
もしかしたら気にしすぎだったのかもしれない。僕が受付や列整理を希望したって、誰に何を思われることもなかったかもしれない。でも、当時の僕はとにかく目立つのが嫌で、人と違っていることが嫌で、できるかぎりすべての物事に対して波風を立てたくなかった。
その日は自分の部屋で、夜をじっと待った。
僕は部屋のカーテンを閉め切り、照明の電源を落とした。直後、冷たいものが背筋を伝う感触があった。久しぶりに味わう本当の暗闇。何ひとつも見えやない。自分の手のひらさえも。自己の置かれた状況に本能の理解が追いつくと、途端に呼吸が焦り始める。喉に息苦しさを覚え、胸のあたりがきゅっと痛んだ。次第に脂汗が滲んでくる。
どうしてこうも恐怖を感じるのか、僕には少しもわからなかった。周りの人たちがどうして平気でいられるのかも。以前に体育館で道徳にまつわる映画を観たとき、暗闇の中、みんなは平気で、僕だけが平気でいられなかった。あのときは体調が悪いと言って早々に逃げ出せたけど、同じ手はそう何度も使えない。まして、文化祭を台無しにしたくはない。
自分が情けなかった。どうして僕だけが弱いのか。理屈がわからない以上、僕は原因を自分自身に求めるしかない。強い恐怖と羞恥に心を挫かれて、いつも涙が溢れた。
膝が震えて立っていられなくなる前に、どうにか照明のスイッチを入れ直した。僕は深呼吸をする。視界に光が差し、鼓動は安定を取り戻していく。目元のあたりを拭うと、涙と汗で手の甲がぐっしょりと濡れた。
怖がりでいるのは格好悪いことだと、そういう価値観を得てからもう四、五年は経っていた。そのあいだずっと、年齢を重ねればいつか恐怖も薄れるものと信じていて、そして根拠のない希望は裏切られ続けた。
努力して克服しようという意志もないではなかった。だけど、僕には年齢相応の知識しかなく、それ相応の忍耐力しか備わっていなかった。抗体を得るためには毒を毒のまま飲むしかない。そういう発想しかできなかった僕は、ただ暗闇に身を晒した。その行為はいたずらに自分を追い詰めるばかり、効果なんてあろうはずもない。さらなる恐怖と克服できなかった自責とが胸に焼き付いて、その苦しみに耐え続けることは僕にはできなかった。
ベッドに体を横たえる。枕元には、ボールペンを模した小さなライトを常に置いていた。お守りのようなものだった。たとえば深夜に目を覚ましたとき、僕は急いでそのペンライトに手を伸ばす。ほんの小さな光源で、明かりは僕を安心させるにはとても足りない。だけど、それが手元にある、いつでも手に取れるというだけで、寝付きや睡眠の質は随分違った。
僕はペンライトを胸の前で握りしめた。
これを持っていけば、少しは耐えられるだろうか。確信も確証もないけど、頼れるものはもう他になかった。
準備期間は憂鬱に過ぎた。
教室の一角に不気味な被り物が飾られたり、床の一部に赤い塗料をこぼされたりするのは、別にどうでもよかった。ただただ、教室が日に日に暗くなっていくのが嫌だった。廊下側の窓に黒いビニールシートが丁寧に貼られ、校庭側の窓には視聴覚室から借りてきた黒の遮光カーテンが取り付けられた。ときおり、羽目を外したクラスメイトがたわむれに電気を消したりする。教室は予想を越えて真っ暗になり、その都度ひどく動揺させられた。
幾度かのホームルームを経て、僕は、ダンボールで作った壁から突然手を突き出して脅かす、という役目を任された。配置は出口の近く、ひとり。髪の長い女の格好をして徘徊するとか、斧を頭に嵌めて掃除用具入れから飛び出すとか、そういう役に比べれば気は楽だ。
もっとも、助かったとは到底言えなかった。ダンボールの壁の裏側、ひときわ暗く狭いスペースで役目を待ってじっとしていないといけない。上手くできる自信はやはりなかった。
唯一の救いと言えば、僕がとちったとしても出し物としての完成度にそれほどの影響はなさそうなことだ。仮に手を出し損ねても、訪問者はたぶんそのミスに気づかず壁の前を素通りしてくれる。暗闇の中で役目を全うするのはあまりにもハードルが高いけど、単に時間をやり過ごすだけでいいなら、お守りがあればどうにかなる気がしていた。よほど運が悪くない限り、クラスメイトに知られることもないだろう。
――楽観だった。いや、盲点だったと言うべきかもしれない。僕はある可能性を考えてもいなかったのだ。
配置がひとりだから誰にも知られずに済む。その思い込みはあっさり覆された。振り返ってみると、当時の自分の考えの浅さに気付く。
すべてを変えたのは、ほんの少しのイレギュラーだった。
「じゃあ、試しにリハーサルやってみようぜ」
そう言い出した委員長を、僕は随分恨むことになる。
文化祭を週明けに控えた金曜日の放課後のことだった。おおかたの仕掛けの準備を終えて、教室はお化け屋敷に様相を変えた。椅子や机を通路の骨組みにして、ダンボールや発泡スチロールで肉付けをする。血を模したペイントや、少ない予算で揃えた恐ろしげな小物で飾り付ければ、出来栄えは子ども騙しだけど、小学生の出し物としてはそれなりの形になっていたと思う。
放課後もいい時間になっていたから、お化け役は急いで持ち場についた。嫌々ながら、僕も。
僕は出口の近く、壁の裏側に切り取られたごく小さなスペースに潜り込んだ。ポケットの中でペンライトをぎゅっと握りしめる。
どうにかここを乗り切ることができれば。
祈りのような切実さを抱えながら、ふたをしようとすると、ひとりのクラスメイトに遮られた。
吉川さんという女の子だった。いつでもクラスの中心で笑っているような子で、さばけた性格をしている。女子とも男子とも仲良くできる彼女とは、内向的な僕でさえ何度か雑談をしたことがあった。とはいえ友達と胸を張って言うことはできず、つまり少し気まずいくらいの間柄だったと言い換えてもいい。
彼女は「ごめんだけど、もうちょっと詰めて」と言った。僕は言われるまま奥へ座る位置をずらす。すると、空いたスペースに彼女がするりと滑り込んできた。
「うーん。ちと、狭いね。まあひとり分だし仕方ないか」
僕は曖昧な相槌を打ってから、どうして、とだけ辛うじて言った。思い切り冷や汗をかきながら。
どうして一緒に入ってくるのか。文化祭は午前の部と午後の部に分かれている。僕は午前中、クラスのお化け屋敷の一員になる。そして午後は、ほかのクラスメイトに持ち場を任せて文化祭を見て回ることができる。そのバトンタッチをする相手が彼女だった。当日は昼食を挟んで入れ替わるので、本来ならそこで鉢合わせることはあり得なかった。
「あれ、聞こえてなかった?」
彼女はきょとんとした顔で言った。
「さっき委員長が言ってたじゃん。時間ないし、午前と午後のメンバーまとめて配置しちまおうって。そうすればお互いに動きの確認もできるしね」
自分の頬が引きつったのがわかった。ちゃんと合理的な理由で、文句のつけようもない。
そばに誰かがいるのは、本当はありがたいことだった。暗闇への恐れがいくらか紛れてくれる。だけど、まったく平気になるわけでは勿論ない。みっともないところを見られたくない一心だった僕は、予期しなかった彼女の存在に強く狼狽した。
僕は怯えてもいたし、焦ってもいた。そんな状態で教室の照明は落とされ、暗闇が訪れる。おどろおどろしい音楽が鳴り始める。たぶん、情緒がめちゃくちゃになってしまったのだ。かつてないほどの圧迫感に襲われ、僕の動悸は病的に激しくなった。
目の粗いスポンジを喉に押し込まれたかのような息苦しさ。痛烈な恐怖。
お守りの光があればなんとかなるなんて、とんでもなく甘い考えだった。気付いたときにはもう涙が出ていた。僕は唇を噛み締めた。せめて嗚咽が漏れることのないように。
小柄な小学生がふたり入るだけでいっぱいいっぱいのスペースだ。僕がどれだけ隠したいと願っても、当然、隣にいる彼女にだけは気付かれてしまう。
彼女の驚いたような気配があった。
「……え、どしたの?」
その小声に、僕は答えられなかった。恐怖と不安に苛まれて、口を開くことさえできない。
怖かった。
情けなかった。途方もなく、恥ずかしかった。
僕は膝を抱えて顔を伏せてしまった。彼女が何かを言っていたけど、もう耳には入らない。遠くでクラスメイトの楽しげな悲鳴が聞こえ始めた。永遠のように長い、その時間は紛れもなく僕の絶望だった。
とどめをさすように、震える僕の手に何かが触れた。その感触はいくらか乱暴に、僕の硬直した拳を解した。僕はおそるおそる顔を上げる。涙で滲んで、夜目は利かない。それでもわかった。
彼女の手だった。
「うわっ、手汗やば」
彼女は苦笑いをしながら言った。僕にはからかわれているようにしか聞こえなかった。手を振り払おうとしたけど、うまく力は入らない。逆にしっかりと握りしめられてしまう。
「落ち着きなって。なんかよくわかんないけど」
僕はなおも抵抗しようと身じろぎしていた。彼女は手を離してくれない。僕の耳元に顔を寄せて、そっと囁く。
「大丈夫だよ、だいじょーぶ」
驚くほど軽い調子の声だった。まるで小気味好い冗談でも言うような。
深刻さのかけらもないその声色が、僕の恐怖を置き去りにした。
僕は全身の緊張がわずかに和らぐのを感じた。パニックが極値を越えると、繋いだままの手に意識が向く。ちょっと痛いくらいに力の込められた指先、伝わってくる人肌の温度。彼女の手はひんやりしていて、僕の心をなだらかに鎮めてくれた。
彼女の言葉や行動が、揶揄ではなく慰撫を目的としていたことに遅れて気づく。
顔が熱かった。情けなくて、恥ずかしかった。だけど喉に支えていた息苦しさは薄れて、代わりに確かな安心感が手のひらにある。おずおずと、僕は彼女の手を握り返した。
彼女はそんなことには少しも気づかなかったかのように、「お、来たよ」と小声で言って、壁の覗き穴を指差した。
「見える?」
僕は頷くことができた。目の前の通路に揺れる明かりが近づいている。お試し役のクラス担任に持たせた懐中電灯の光だ。
タイミングを示し合わせて、僕は右手を、彼女は左手を、通路に思い切り突き出した。驚く声。彼女は楽しげにくすくす笑っていた。
やがて予行はつつがなく終えられた。なにがしかの問題があったという報告は誰からも上がらず、だから文化祭の当日も予定の通りに配置についた。
暗闇の中で、ひとりきり。僕は自分の役割を上手く果たせたとは思わない。だけど、そのことに気付いた人は誰もいなかった。
――彼女を除いて。
◇◇◇
少し苦い記憶だ。いまだに思い出しては気恥ずかしくなってしまう。だけど、僕にとってなくてはならない思い出でもある。
文化祭を終えたその翌日、僕はひとりのクラスメイトに呼び出され、一冊の本を渡された。『暗所と心理システム』という題名で、裏表紙には図書室のラベルが貼られていた。
その学術書は僕の抱えていた不安や孤独を見事に解消してみせた。僕は暗所恐怖症というものの存在を知り、その具体的な症例を知り、治療法についてを知った。悩みを抱えているのが自分だけではないということ、その悩みは治療できるものであるということ、その事実がいったいどれだけ僕を救ったか。
あの日あのとき、もしも彼女が救いの手を差し伸べてくれていなかったら、僕は永遠に暗闇の恐怖に囚われたままでいたかもしれない。
あれからもう八年近くが経って、僕はいま、映画鑑賞を趣味のひとつに数えることができる。明かりを落とした密室で何事かを楽しめるなんて、かつての僕では考えられなかった。
ポップコーンを肘掛けのホルダーに置いて、僕は携帯端末の電源をオフにした。まもなく上映が始まろうとしている。
薄闇のシアターの中で、僕はいくらか自分の鼓動が乱れているのを感じていた。不規則でやや激しい動悸、平静を保つよう心がけてはいたけれど、顔が紅潮している気もしないではない。身体が訴える症状は、過去苦しめられたそれと類似している。克服したはずの恐怖がぶり返したか――というと、まあ、そういうわけではない。
僕はさりげなく左隣の座席を見た。そこには僕の同伴者が座っている。穏やかな目でスクリーンを眺めながら。
青白い光に照らされて、きれいな横顔だった。
ここが特等席だ、と思った。話題の映画の封切りで、座席は前列の隅っこだったけど。いつまでも一番近くでこの景色を見ていたい。そういう関係でいられることを願う。
僕の視線に気付いてか、彼女がこちらに顔を向ける。小さく首を傾げた。
肘掛けに置いた僕の左手に、ひんやり冷たい彼女の手が触れた。そっと指を絡ませて、彼女は苦笑いをする。
「うわっ、手汗やば。大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「これは……好きな人の隣にいて、緊張してるだけ」
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