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その日は朝から嫌な予感がしていた。
目を覚ましたフィリップはざわざわする胸を押さえ、それまで見ていた夢を思い出そうとした。恐ろしい夢だった。しかし、それ以上はどうしても思い出せなかった。フィリップが思い出そうとすればするほど、夢は記憶の隙間からこぼれ落ちてしまうのだ。ただ、とても怖い夢であることだけははっきりと憶えていた。
フィリップは諦めてベッドから立ち上がり、床に落ちていたタオルで ――― 少年の多くがそうであるように、フィリップもまた“片付け”という行為に必要性を感じていなかった ――― 顔を拭くと、パンとチーズだけの簡単な朝食を済ませた。それからいつものシャツとズボンに着替え、長い髪をひとつにまとめて赤い玉の髪飾りをつけた。すっかり身支度が整うと、フィリップは小屋を出て町に向かった。胸騒ぎの収まる様子は全くなかった。
「おう、坊主。今日もおつかいか?」
フィリップが浜辺を歩いていると船の親方に呼び止められた。親方は若い船夫と甲板の掃除をしていたようで、手には大きなバケツとブラシを持っていた。フィリップは二人に挨拶をしながら船に近付いた。
「親方、ペシュールおじさんを見なかった?」
「なんだ、あのじいさん、また弁当を忘れたのか?」
親方はあきれたように笑い、ブラシの柄で海岸の西を指した。
「じいさんならあっちの岩陰で釣りをしてるぜ。なんでもタマンがいるんだとよ」
フィリップがお礼を言うと、親方は「いいってことよ」とにっこりした。
「そんなことより、坊主、また漁の具合を見てくれよ」
フィリップは「わかった」とうなずき、親方の乗っている船を ――― 町で最も大きな船を見た。いつも通り立派な船だ。二本の帆柱は高くそびえ、長い竜骨は堅く頑丈そうだった。
「どうだ? 明日は大漁か? ん?」
「いつもと同じ。悪い感じもしないよ、船からは」
でも、とフィリップは続ける。
「明日は町にいたほうがいいと思う。ぼく、とても怖い夢を見たから」
「夢? そりゃまたどんな夢だ?」
「わからない。何も思い出せないんだ。けど、すごく嫌な感じがする」
嫌な感じかぁ、と親方は頭の後ろをぼりぼりかいた。
「坊主の勘は当たるからなぁ……」
と、小さくうめく。三年前になるだろうか、フィリップが嵐の訪れを言い当てたことがあった。ひどい嵐だったが、季節外れなこともあり、町の住人は誰も予測することができなかった。ただ、フィリップだけがしきりに「嫌な感じがする」と言っていた。それからだ、親方はフィリップのいう“嫌な感じ”を信頼し、たびたび漁の具合を訊くようになった。
「仕方がねぇ。明日の漁は諦めるか」
親方はため息をつくと船夫を振り返った。
「おう、マラン。聞こえてただろ? 明日の漁はやめだ。お前、今日はもうあがって船の奴らにそう伝えな」
それまで適当に甲板を磨いていた船夫は「へい、親方!」と元気よくうなずき、いそいそと掃除道具を片付け始めた。親方は「現金な奴め」と苦笑いをした。
「ところで坊主、お前さん、晩飯の当てはあるのか?」
船夫にバケツとブラシを手渡しながら親方が言った。
「うちに来るか? ちょうどいい腸詰めが手に入ったんだ」
「ありがとう。でも、養父さんたちのところに行くから……」
「なんだ、実家に戻るのか?」
親方は少し驚いた様子で振り向いた。違うよ、とフィリップは首を振る。
「ただの約束。九曜日の夜は養父さんたちとご飯を食べることになってるんだ」
そうか、と親方は目を細めてまじまじとフィリップを見た。
「可愛がられてるんだなぁ、お前さん」
「まさか! お行儀が悪いとか、勉強しなさいとか、いつもお小言ばかりだよ」
フィリップは思い切り顔をしかめた。うんざりした口調で続ける。
「ぼくが仕事を継げればそれでいいんだ、養父さんたちは」
「懲りねぇな、町長たちも」
親方はまたあきれたように笑い、むくれているフィリップの頭をなでてぐしゃぐしゃにした。ポケットに片手を突っ込み、さびついた銅貨を五枚取り出すとフィリップに握らせる。
「ほらよ、坊主。引き止めて悪かったな。そいつで何か旨いもんでも食べな」
フィリップは親方にお礼を言い、若い船夫に手を振ると、海岸の西に向かって歩き始めた。
【用語解説】
タマン:ハマフエフキ。フエフキダイ科の海水魚。高級魚。
九曜日:カレンダーで『9』のつく日。
なお、この世界は週10日制である。
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