第1章 少年フィリップ

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 ペシュールおじさんにお弁当を渡したあと ―――「おお、フィル、いつもすまないね」と、おじさん。「どれ、お礼にひと切れどうかね? 女房の焼くパイはいつも絶妙なんだ!」――― フィリップは町に戻り、屋台で揚げたグルクンと干しぶどうを買って食べた。それからパン屋に立ち寄り ―――「ああ、フィル、ちょうどいいところに!」と、パン屋の奥さん。「山羊(やぎ)飼いのロビンを呼んできておくれ。この忙しいってときにチーズが切れちまってさ!」――― ゴーフルをひとつもらうと、町の北西に広がる森へ向かった。森で山羊飼いの少年に会い、パン屋の奥さんの用向きを伝えると、山羊飼いが戻るまでヤギの番をした。夕方、山羊飼いが戻ると ―――「ごめん、フィル、遅くなった!」と、山羊飼い。「帰りにマリーに会ってさ、つい話し込んじゃって……」――― フィリップは町長夫妻の家に急いだが、門をたたくころにはもうとっぷりと日が暮れていた。夫妻は口々に「遅い!」と文句を言ったが、フィリップはかまわずごちそうを ――― 小麦のパン、カサゴとトマトのスープ、ニシンの燻製(くんせい)(とり)の網焼き、揚げたいも、ゆでたいも、にんじん、そら豆、えんどう豆、そして酢漬けのたまねぎとキャベツを次々おなかに詰め込んだ。最後にはちみつのパイをたいらげると、フィリップは「泊まっていきなさい」と引き止める夫妻を振り切って家を出た。  月が東の空高く昇るころ、フィリップはようやく小屋に戻ることができた。そのままベッドに倒れ込む。朝から続く胸騒ぎはますますひどくなっていた。フィリップは理由を考えたが、思い当たることは何もなかった。いつも通り町は活気にあふれていたし、海の風も波も至って穏やかだった。それなのにどうして、こんなにも胸がざわざわするのだろう?  フィリップはしばらく天井を見つめていたが、やがて大きく息を吐くとベッドから立ち上がった。(わら)の詰まった枕をひっくり返し、転がり落ちた横笛を拾うと、小屋を出て裏山に向かった。  緩やかな坂道を登っていくと三叉路(さんさろ)に突き当たる。そこを左に曲がり、木々の生い茂る山道を抜けると切り立った崖の上に出る。それはたいそう見晴らしのよい崖で、左にはアケルナルの町とその東を流れるエリダヌス川を、右には隣町の(あか)りを小さく見ることができた。足下に広がる深い森は沖へと続き、水平線の手前で月の浮かぶ海に替わっていた。見上げる空は薄くけぶり、たくさんの星が淡く瞬いている。この壮大な景色を望む崖はフィリップのとっておきだった。  フィリップはイタジイの根元に腰掛けると横笛を吹き始めた。高く澄んだ笛の音が夜空に響く。フィリップの持つ横笛は変わったつくりをしていて、町の住人は誰も吹くことができなかった。フィリップには川で拾われる以前の記憶がない。けれど、この横笛の ――― まだ幼い自分が握りしめていた笛の吹き方だけはよく(おぼ)えていた。そのためだろうか、横笛を吹くと本当の家族に通じるような気持ちがして、フィリップの心はひどく落ち着くのだった。  突然、ざわり、と空気が揺れた。背中に冷たいものが走る。驚いたフィリップが顔を上げると、そこには赤い火の玉がひとつ、ゆらりゆらりと宙に浮かんでいた。イタチのいたずらだろうか? フィリップはじっと目を凝らした。すると、ひときわ赤い虹彩(こうさい)と細く切れた瞳孔が見えた。それは大きな目玉だった。目玉は透き通った黒い手のひらについていた。胴体(からだ)は見当たらず、ただ太い腕だけが崖の下へと続いている。そして、月明かりに鋭い爪を輝かせながら、()()はゆっくりと夜空を漂っていた。化け物だ、とフィリップは息を()んだ。逃げなければ……!  フィリップはイタジイの根元からそうっと立ち上がった。化け物の様子をうかがいながらそろそろと歩く。フィリップの姿は見えているはずなのに、化け物はゆらゆらと宙に浮いたままだ。襲うつもりがないのだろうか? フィリップが安心しかけたそのときだった。化け物の動きがぴたりと止まった。びりびりと空気が震え、ぎらりと目が輝き、五本の指が大きく開く。長い腕を風にひるがえすと、化け物は猛然とフィリップに襲いかかった。フィリップはとっさに右に跳んでかわすと ――― 化け物はそのまま地面に突っ込んだ。大きな音を立てて地面がえぐれる ――― 山道に逃げ込もうと走り出した。ところが、同じ化け物がもう一匹、フィリップの行く手を阻むように木々の間から姿を現した。囲まれた、と思う間もなく化け物が襲いかかる。フィリップは後ろに跳んでよけると、化け物の太い腕をかいくぐり、再び山道に逃げ込もうとした。しかし、はじめの一匹に邪魔をされ、フィリップはまた大きく後ろに退いた。どうしたらいい? どうしたら逃げられる? 次々に襲いかかる化け物をかろうじてかわしながら、フィリップは懸命に考えた。だが、何も思い付かない。()(すべ)もなくじりじりと崖際に追い込まれていく……。  しまった、と思ったときにはすでに遅かった。ぐらりと視界が揺れる。足を踏み外したフィリップは、真っ逆さまに崖の下へと落ちていった ―――――。 【用語解説】  フィル:フィリップの愛称。  グルクン:タカサゴ。タカサゴ科の海水魚。  ゴーフル:小麦粉を水で溶いて焼いた菓子。ワッフル。  イタジイ:スダジイ。ブナ科の常緑広葉樹。
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