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第2章 歌声と少女
気が付くとフィリップは草むらの上にうつ伏していた。首だけを起こしてそっとあたりをうかがう。化け物の姿はどこにも見当たらない。フィリップはほっと息を吐くと立ち上がり ――― あれだけ高い所から落ちたというのに、体にはかすり傷のひとつもついていなかった。どうしてだろう? ――― 両手でシャツやズボンについた枯れ草を払った。そばに落ちていた横笛を拾い、ベルトに挟むと崖を見上げる。そこに人影はない。けれど、崖から落ちる瞬間、フィリップは確かに見たのだ。こちらに手を伸ばす少年を ――― 自分と全く同じ、黄金色の髪をした少年の姿を。あれはいったい誰だったのだろう?
フィリップは再び周囲を見回した。うっそうとした森は暗く静まり返っている。時折ヤギの番をするフィリップだが、ここまで深く森の奥に入ったことはなかった。今にも山犬が飛び出してきそうだな、とフィリップは身震いした。早く町に戻ろう。でも、とフィリップは考え直す。もしまたあの化け物が現れたら? ――― ざわざわとうるさい胸を押さえる。“嫌な感じ”はまだ続いている ――― 町で暴れでもしたらどうしよう?
「……あれ?」
ふと物音に気付く。悩むのをやめて耳を澄ますと、高く弾むような声が聞き取れた。歌だ、とフィリップは思った。幼い子どもが歌をうたっている。その声は森のさらに奥から聞こえてくるようだった。誰だろう、とフィリップの好奇心が首をもたげた。何をしているのだろう? 見たい、と強く感じたフィリップは声の聞こえるほうへと歩き出した。山犬や化け物のことなどもうすっかり忘れている。
“さあ、――― に会いに行こう”
頭の片隅で誰かがそうささやいた。そんな気がした。
歌声を頼りにフィリップは森の奥へ奥へと歩いていく。幸いなことに、草むらを横切る猫以外は何も ――― 山犬にも化け物にも出会わなかった。奥に進むにつれて草丈は低くなり、木々もまばらになっていった。代わりに、ごつごつとした大きな岩が増えた。月明かりにぼんやりと輝く岩を眺めながら、フィリップはさらに森の奥深くへと歩いていく。やがて、行く手に小さな灯りが見えた。ろうそくのようだ、とフィリップは思った。やはりひとがいるのだろう。その灯りを目指して進むと開けた場所に出た。ぼつぼつと岩が並ぶなかで、ひときわ大きな岩の前にそのひとは立っていた。長い髪にリボンを結び、細い腕にランタンを掲げたそのひとは、なにやら熱心に岩を調べているようだった。自分と同じ年頃の少女だろう、とフィリップは考えた。ランタンの灯に照らされた横顔ははっとするほど美しい。あの少女が歌をうたっているのだろうか?
夜空に明るく無邪気な歌声が響く。
帰ろう 帰ろう われらの城に
戻ろう 戻ろう 主人のもとに
われらの城は影の城
逆さまにつなぐ彼の土地で
まやかしのときを刻んでいる
帰ろう 帰ろう われらの城に
戻ろう 戻ろう 主人のもとに
われらの主人は城の奥
星の予言者にかしづかれ
火の輪の子どもを待っている
帰ろう 帰ろう われらの城に
戻ろう 戻ろう 主人のもとに
ふたごの人魚が泣くころに
望月が欠ける その前に
【用語解説】
山犬:野生化した犬。野犬。
ランタン:角型の手提げランプ。光源にろうそくを用いる。
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