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 いつもと同じ帰り道。彼の少し後ろを歩いていると、アイさん、といつもより少し高くなった声で呼ばれる。  こちらを振り返った彼は、少し寄り道しない? と提案してきた。拒否することもできたが、私はそれに黙って頷いていた。  連れてこられたのは、街を一望できる展望台にもなっている場所だった。時間帯のせいか他に人気はなく、この広い空間に私と彼の二人きりだった。  彼は展望デッキに近づいて、眼下の街を見下ろしている。あっちが学校で、あっちが俺の家で、と指を刺しながら景色を見る彼の後ろに、そっと歩み寄った。 ──今この場所でなら、いや、 「アイさん?」  徐に彼が振り返ったために、一瞬の躊躇いも掻き消えていった。いつもと変わらないように返事をすると、隣に、と誘われる。誘われるままに隣に並び、同じように眼下の街並みを見た。  鮮やかな橙色に街並みが照らされている。傾きかけた太陽と反対側からは、夜が顔を覗かせいていた。綺麗と形容されるであろうこの景色を見ても、私にはなんの感慨も浮かばなかった。 「アイさん、あの、ね……」  ぼんやりと景色を見つめていると、彼が控えめに名前を呼んできた。彼の方を見ても、言葉を選んでいるのか、私と目線を合わせずに指先を弄っている。 「はい」 「俺のこと、名前で呼んでほしいなーって」  だめ、かな? と伺うように私のことを見上げてくる。困ったように眉を下げるこの表情から、多くの人は小動物を彷彿とさせるのだろう。 「わかりました」 「ッほんと!?」 「空木」 「そっち!?」  私の発言で、目の前の男は激しく一喜一憂する。がっくりと肩を落としては、よくわからない唸り声をあげていた。 「名前! 名前で呼んでほしいの!」 「名前」 「そう、名前」  がばりと顔をあげた彼は、念押しをするように、そう言った。  人間の間では、お互いのことを名前で呼び合うのは親しい関係であると記憶している。それをするように私に要求してくる、この男の真意を計りかねていた。 「優雨」  少しばかり逡巡したけれど、私が考えてもわかることではないのは明らかだった。考えを放棄して、頼まれたように彼のことを名前で呼んだ。しかしその言葉に返事はなく、彼の方を見ると顔を抑えて俯いていた。 「……も、」  指の隙間から、小さな、本当に小さな声が、漏れ聞こえてきた。 「もう一回、よんで」 「優雨」 「うん、うん……」  自分の名前が呼ばれるのを聞いて、目の前の男、優雨は何かを噛み締めるように頷く。 「ありがとう、アイさん」  そして、とびきり柔らかい表情で、笑みを形作った。 「この景色をアイさんと見れたこと、おれの宝物だよ」  宝物、と言われたことを口の中だけで復唱する。この景色は、記憶は、“宝物”なのだと、優雨がそう言った。名前がついたそれは、一つの物として形を成し、そっと掌に残ったような気がした。優しく両手で包むと、何故だか胸のところが暖かいような不思議な感覚がした。  今まで感じたことのない感覚を味わっていると、私の様子を見ていたらしい優雨が、先ほどよりも目を緩ませていた。見たことがないほどの、たくさんの感情を含んだ視線がぶつけられる。 「優雨、」 「俺、アイさんのこと、好きだよ」  続けようとした言葉は、優雨によって遮られた。 「できれば、ずっと一緒にいられたらなって」  私に答えを求めるでもなく、優雨はそう言って瞳を和ませたまま見つめてくる。  そんな、そんなことを言われても、  私は、まだ彼に私のことを何一つ明かしていない。こんなの、ずっと騙し続けているのと、同じようなものだ。  自分の知らない感情が湧き上がってきて、このままではいられない、いたくないと、大声で叫ぶ。  それなのに、 「私、も」  考えるよりも先に、声が出ていた。 「私も、一緒に、いたい」  思考回路が、焼き切れそうなほどに、熱い。自分の思考から飛躍して、コントロールできない言葉が溢れてくる。私を突き動かす何かが、私の中に生まれていた。こんな熱さを、私は知らなかった。  うん、と小さい声が聞こえる。 「ずっと一緒に、いようね」  壊れ物を触るように、私の指先へ彼の指が触れてくる。  絡められた指先が、やけに熱かった。 「それじゃあ、また、明日ね」  別れ際、そう言った優雨は大きく手を振りながらこちらに背を向けた。その背中が見えなくなって、つられるようにして振り返していた手が、力を失って重力に従うようにだらりと垂れる。 「……また、明日」  優雨の言葉を、反芻する。  こんな日が、また明日も続けば、とどこかで想像する自分がいることに気づいていなかった。
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