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「榊く~ん、今日はありがとね~」
俺の思考は緋南先輩の可愛らしくて悪戯っぽい声で中断させられる。
俺は思わずドギマギして
「い、いえ。
特に用事とかありませんでしたからっ。」
とドモりながら答える。
いや、実のところ、用事はあったんだ。
部活が終わったら、幼馴染みの久原里美が書店に行くのに付き合うという約束があったんだ。
でもアレだ、校門を出たところでこの三人組が待ち構えていて、そして緋南先輩が困ったような笑みをその顔に浮かべて手を合わせながら、
「お願いっ、コトさんが君にも一緒に来て欲しいって
言うから、ちょっと市立病院まで
付き合ってくれないかな?」
と頼み込んで来たら、東高の男子生徒として、それを断れる訳なんて無いのだ。
憧れの『東高の女神様』にお願いごとをされたのに、それを無碍に断るなんてことをしたら、もう絶対に確実に天罰が下るだろう。
そして、もし『東高の女神様』のお願いを無碍に断っただなんて噂が広まりでもしようものなら、校内にて隠然たる勢力を持つ秘密結社のような『緋南先輩親衛隊』からどんな仕打ちを受けるか分かったもんじゃない。
そう自分に言い聞かせ、「ごめんっ、里美!」と心の中で叫びつつ、急な用事が出来た、また明日にでもといった内容のメッセージを彼女へと送り、『大浦一味』と一緒にこの市立病院へとやって来たのだ。
しかしだ、お見舞いか何かと思っていたのに、なんか全然違う。
もうアレだ、完全に欺された。
手すりにその体をもたれ掛けさせた緋南先輩は、俺のほうを振り返りながら言葉を続ける。
誰もが一瞬で恋に落ちてしまいそうな、無邪気で柔らかな微笑みをその可愛らしくも大人っぽい顔に浮かべつつ。
「コトさんがね、今夜はどーしても榊くんに
来て貰わなきゃ困るって言って聞かなくってさ。
ごめんね~、ビックリしたでしょ?」
俺はまたもドギマギする。
いやぁ、緋南先輩とこうしてお話できるだけでも一緒に来る価値ありましたよ、なんて答えられればいいのだが、そんなチャラいことなんて言える訳もない。
何せ俺の背後には、あの登也先輩が控えているのだ。
下手なことを口走ろうものなら、何されるか分かったもんじゃない。
筋肉の塊が雪崩を打って俺に襲いかかってくるに違い無い。
登也先輩が俺の両肩を掴む。唐突に。
俺は思わず「ヒッ!」と声を上げて縮み上がる。
「おぉ、悪い悪い、驚かせちまったな。
今日が初めてだから緊張するのは当たり前だけど、
でも、あんまりガチガチだと肩凝っちまうぞ。」
彼にしてはきっと最大限に優しげな声色でそう言った登也先輩は、俺の肩をグリグリと揉み始める。
気持ち良いというよりも、むしろ痛い!
込み上げる悲鳴を抑えるので精一杯だ。
しかし、「今日が初めて」って何のことだよ?
これから俺は何かさせられるのか?!
俺は登也先輩のほうを振り向きながら、
恐る恐る疑問を口にする。
「あの…今日は…
一体、何をするんですか?」と。
俺より頭一つ分ほど背の高い登也先輩の表情はよく見えなかったが、俺のその疑問を耳にし、明らかに驚いた雰囲気を漂わせていた。
非常階段の手すりにもたれ掛かって街を眺めていた緋南先輩も驚いたような表情を浮かべ、俺のほうを振り返っている。
そして、緋南先輩は、ゆっくりと疑問を口にする。
その言葉ひとつひとつを噛み締めるかのように。
「あの…もし…コットさ〜ん?
もしかしてですけど~、榊くんに今夜のこと、
なんにも言ってなかったりします~?」
大浦琴羽は無言で頷く。
沈黙が流れる。
うわぁ、これ…駄目なヤツだ。
流れる沈黙は、その重苦しさを増すように思えた。
そんな沈黙など知ったことかといった感じに、
大浦琴羽の訥々とした言葉が響き渡る。
「話したところで信じないだろうし、
仮に信じたら、付いて来なかったと思うから。」
どこか突き放したようなその声色は、
何かもう無慈悲な死刑宣告のようにも聞こえた。
いやいやいやいや、
話したところで信じないような事って一体何だよ?
信じたところで付いて来ない事って
一体どんなヤバい事なんだよ?
非常階段を駆け下りて逃げ出したいような衝動に駆られる。
けれど、俺の両肩をガッチリ掴み、力任せに揉みしだいている登也先輩のこの万力のような掌からは絶対に逃れられないだろう。
登也先輩のひと揉み毎に、俺の肩の細胞の幾つかは潰れて死んじゃっているに違いない。
ごめんよ、俺の細胞たち。
俺自身も何だかピンチっぽいから、
それに免じて許しておくれ。
そんな俺の焦りや後悔、そして心に漂い始めた絶望など知ったことかという風に、登也先輩と緋南先輩の吹き出すような笑い声が夜の空気を震わせる。
「いや~、まぁ~、確かにそうですけどぉ~。」
緋南先輩は笑いつつ、呆れたように声を上げる。
「ま、今夜は大丈夫!
コトさんとヒナと俺とで
バッチリやるから!安心しな!」
登也先輩は朗らかな笑い声を上げ、
俺の肩をバンバン叩きながら励ましてくれる。
それ痛いから!
細胞がどんどん死んじゃうから!
全然励ましになってないから!
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
絶望的な気持ちとなった俺は、恐らくはこの憂慮すべき事態の発端となったであろう、今日の午後の授業での出来事について恨めしく思いを馳せる。
あぁ、こんなことになるのなら、
あの時、大浦琴羽に声なんか掛けなかったのに。
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