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違和感を抱き始めたのは、読経のような酒井の声が聞こえなくなった辺りからだったと思う。
あれ、なんだか変じゃない?と、俺の心に違和感がぼんやりと浮かび上がってくる。
気が付くと、聞こえなくなったのは、酒井の声だけではないようだった。
教室中がシーンと静まりかえっていた。
酒井が退屈な読経を止めてみたところで、教室の中に何かしらの物音はしているものだろう。
教科書をめくる音とか、椅子を床と擦れさせる音とか、あるいはそれぞれの身動きが醸すささやかなざわめきとか。
そういった物音すら一切聞こえて来ないのだ。
俺は驚き、そして戸惑った。
一体全体、何が起きたって言うんだ?
もしかして、俺が居眠りしていることに気が付いて、酒井とクラスメイト達が、俺に対してドッキリでも仕掛けようとしているのか?とも思った。
でも、そんな感じじゃない。
上手く言えないけど、なんかヤバい感じの静けさだ。
訳も分からず、俺はただただ戸惑う。
そんな俺の戸惑いを嘲笑うかのように、次なる異変が景色の中にその姿を現わし始めていた。
次なる異変、それは窓の外に現れつつあった。
先程までは抜けるような青であった空の色、それは今や灰色に染まり切っていた。
それだけじゃない。
窓の外に見えるあらゆるものが、ジワジワと灰色に染め上げられつつあった。
校庭に植わっている木々も、その向こう側に見える家々の屋根も。
その様子はまるで、目に入るあらゆるものが空に接している部分からゆっくりと灰色に侵されていく、そのような感じだった。
狼狽えた俺は教室への前方へと視線を泳がす。
教壇に立っている酒井は、その動きをピタリと止めていた。
やや俯き加減の姿勢でいて、開いた教科書をその左手に持ち、そして、眼鏡のつるに右手を添えた状態からピクリとも動かない。
その酒井の姿も窓の外の風景と同様、灰色に染め上げられつつあった。
パントマイムで銅像のマネをしている人を街中のイベントで見掛けたことがあるが、まさにそんな感じだった。
けれど、この酒井がパントマイムなんてする訳ないだろう。
しかも授業中なんかに。
動かなくなってしまったのは酒井だけじゃなかった。
教室中のクラスメイト達も、誰一人として微動だにしなかった。
そして、皆はジワジワと灰色に塗り潰されつつあった。
酒井やクラスメイト達のみならず、教室の中のあらゆるものが灰色に塗り潰されつつあった。
教室中の壁や天井の至るところに小さな灰色のシミが生じ、そのシミがどんどんとその色を濃くしながらジワジワと広がっていく、そんな感じだった。
壁も、天井も、机も、天井のライトも、ジワジワと灰色に塗りつぶされていく。
俺の前の席に座っているクラスメイトもそうだった。
身動き一つしない彼の背中の真ん中辺りに灰色のシミがポツンと生まれた。
最初は点でしかなかったその灰色のシミは、ジワジワと背中一面へと広がり、頭や手足へと拡がっていき、そして、全身をゆっくりと灰色に染め上げて行った。
教室の中の時間が止まりつつある、そのように感じられた。
教室の中からありとあらゆる熱、ありとあらゆる彩りが奪われつつある、そんなふうに思えてしまった。
混乱、そして言いようのない恐怖が急速に俺の心を満たし始める。
一体何だ、何なんだこれは?
俺も、時間が止まってしまうのか?
俺も、このまま灰色に染め上げてしまうのか?
酒井のように、クラスメイト達のように。
そうなると、俺は一体どうなってしまうんだ?!
心臓が早鐘の如く脈打ち始める。
知らず知らずのうちに呼吸が速くなる。
喉がカラッカラになる。
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