8人が本棚に入れています
本棚に追加
半ばパニック状態に陥った俺は、焦りに駆り立てられて左右を見渡す。
左側を向いたところで、俺は思わず息を呑んだ。
左の席に座っている三矢杜琴羽。
彼女だけは、その色が失われていなかった。
彼女だけは、灰色になっていなかった。
彼女だけは、ちゃんと動いていた。
彼女はいつものように背筋を伸ばし、教壇に立っている銅像のような酒井へとその視線を向けている。
その口は、何か口ずさんでいるかのように微かに動いている。
俺の心に安堵の念が湧き上がる。
良かった、こんな世界に取り残されたのは俺だけではなかった、と。
まさに地獄に仏、といった心境だった。
あ…あぁ、と、カラカラの喉で、搾り出すようにして三矢杜琴羽へと声を掛ける。
「あ…あの…」といった、呻きにも似た、自分のものとも思えない弱々しい声が喉の奥から搾り出される。
俺のか細い呼び声が届いたのか、三矢杜琴羽はゆっくりと俺の方を向く。
そして、彼女と目が合った。
彼女の目を見るのは、それが初めてだった。
分厚いレンズ越しに彼女の切れ長の目が見えた。
切れ長の目の中に佇む黒々とした瞳、その色合いは夜の闇を思わせるようだった。
その闇は、無機質なものでもなく、そして、虚無を感じさせるようなものでもなかった。
深々としたその奥底に、何物かを匿し持っているかのような色合いの闇。
その深々とした闇の中に、幾多もの無数の煌めきが飛び交っている、そのようにも思えた。
とてつもなく深い寂しさ、そして、とてつもなく強い気持ちが俺の心に流れ込んでくる、そんな感じだった。
それは、これまで抱いたことの無い感覚だった。
それだけじゃない。
じんわりとした懐かさが心の奥底から静かに湧き上がってくる、そんな感覚もまた抱いていた。
そして、こう思った。
この瞳に見詰められている限り、
俺の時間は止まらない。
この瞳を見詰めている限り、
俺は灰色に染まらない。
俺を取り巻く世界がグラリを傾ぎ始めていた。
日常って、こんな感じに、何の前触れも無く、呆気なく失われていくんだな。
灰色の静寂の中、三矢杜琴羽の瞳に救われた俺は、ぼんやりとそう思っていた。
最初のコメントを投稿しよう!