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焼きそばのソース
私は所謂、空気を読むことは得意ではない。
私の言葉は柔らかさに欠ける。
そして、それは往々にして冷たい。
中学3年の時、私はクラス委員だった。
クラスのミーティングの時に、
級友達が思い思いに口にする様々な意見。
雑駁とした、纏まりのない言葉の数々。
然れども、その言葉たちは熱に満ち、
そして、しなやかさに溢れていた。
教室の空気に漲り行く熱、そしてしなやかさ。
そんな雑駁とした級友たちの言葉を纏めるのは
私の言葉だった。
教室の空気に漲る熱を、
そしてしなやかさを奪うのは、私の言葉だった。
私が言葉を発した後、
それまでの溌剌とした熱は失われ、
そして、それまでのしなやかさは、
枷を嵌められたかのように鳴りを潜めてしまう。
もし、私が彼らの熱に些かでも馴染めたのなら、
まだ結果は変わったのかもしれない。
空気の中に漂う熱も、そしてしなやかさも、
その息の根を止められずに済んだのかもしれない。
けれども、私はそれを拒否した。
彼らの熱に馴染み、教室の空気が纏う熱としなやかさを愛でることを私は拒否した。
それは只、面倒だったから。
私の前にあるのは、お湯を切ったカップ焼きそば。
三分前までは硬く、冷たく、縮こまっていた麺。
それがお湯、そしてその熱の働きで、
柔らかさと温もりと伸びやかさを取り戻している。
立ち昇る湯気の狭間にて、取り戻した
熱としなやかさに歓喜するまだ味の無い麺。
そんな麺に私は注ぐ。
冷え切ったソースを。
熱としなやかさに歓喜していた何者でも無い麺は、
浴びせられた冷たいソースにその身を強張らせ
そして、「焼きそば」へと姿を変えて行く。
硬さと冷たさからの解放に歓喜していた麺は、
冷たいソースにより、
「焼きそば」という枷に押し込められて行く。
ソースのパッケージにはこう書いてあった。
『蓋の上で温めてください』と。
けれども、私はそれを為さなかった。
それは只、面倒だったから。
ソースを幾ばくかでも温めていれば或いは。
けれども、私はそれを為さない。
只、面倒だから。
私は私を、そして私に纏わるものを温めない。
私は私の言葉を温めない。
仮初ではあっても物柄に熱を与えること、
それは世界と和解する術だとは理解しているけど。
でも、それを為さない。
何故なら
それは、只、面倒だから。
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