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彼の場合
清潔感のある真っ白な壁。床も、ドアも、どこもかしこも真っ白だ。照明器具の光を反射させて、眩しいほど。
初めて目を覚ました日、ここは天国というか、そういった空間なのだと思った。話に聞く天国というものはもう少し幸せな空間だと思っていたけれど、この無機質な空間は却って死とか無とかを思わせて、「ああ、俺は死んだのか」としっくり来たものだ。
しかし起き上がってみて、掌を握ったり開いたりしていると次第に頭がはっきりしたようで、いろいろな機械音が耳についた。ベッドが軋む音、空調の音、電気が通る音、心臓の音。つまり、生きている音。
自分が死んだわけではないと理解した後、まずは起きた部屋を調べてみた。その後は部屋を出てこの空間を歩き回り状況把握に努めたりして、意外と自分が冷静に行動できる人間なのだということを知った。というよりも、このよくわからない状況から抜け出したい一心だったように思う。
調べてわかったのは、ここはシェルターであること。生命活動の維持には問題なさそうな程度に設備が整っていること。そして、起きている人間は自分しかいないらしいこと。
時間が経つにつれて思い出したのは、あの日のことだ。あの日、多分俺は眠りについた。
いつも通りの一日だったはずだ。朝起きて、トーストに目玉焼きを乗っけて食べた。目玉焼きが卵黄半熟の白身カリカリに素晴らしく上手くできて、きっと今日はいい日だなんて思ったりして。いつも通り電車に乗って出勤して、いつも通り仕事をして、いつも通り帰宅するはずだった帰り道。そこからの記憶は曖昧だけれど、地面が急にうねったように思う。頭に激痛がして、何かがぶつかる音、悲鳴、救急車の音、「大丈夫ですか」といった呼び声、そういったものを朦朧とした意識の中で聞いていた。
意識を今自分が生きる現実世界に戻し、あの日激痛を感じた頭に触れると、縫ったような、少し盛り上がった五センチほどの線がある。その線のところだけつるつるとしていて、禿げてしまったのかと少し凹んだ。線の周りの髪は無事で、多分見た目ではわからないだろうことが救いだ。
とにかく、見つけた日誌によると、あの日、天災により世界は壊滅。生き残った人類には、コールドスリープという手段が取られたらしい。コールドスリープなんて、まるでSF。そういったものは選ばれしものが優先にされるような気がして、どうして自分なんかがと思ったけれど、どうやら手当たり次第、その時息があった人類を全てコールドスリープするという強行策に出たらしい。日誌からは人類滅亡に対する焦りが窺えた。
多分あの日あの瞬間、怪我をしたタイミングが良かったのだ。まだ天災は序盤で病院なども機能していて、わりかし治療を受けられる状況だったのだろうと思う。今生きていることを「良かった」と喜んでいいのかはわからなかったけれど、頭の怪我を治療してもらえ、意識は戻らないながら息があって、そうして知らないうちにコールドスリープされて、目が覚めた。そうして、今がある。
***
生き残った人類を片っ端からコールドスリープしただけあって、シェルター内にはそれなりに人間がいた。ただし、生きているのか死んでいるのかは、わからない。解凍方法は日誌にあったけれど、目の前のそれが人間だと思うと、簡単に手を出すのは躊躇われた。起こして仲良くできるのか? ここでどれだけの人間が暮らせるのか? いや、起きてからの問題ならまだいい。もし、解凍方法を間違ってしまったら? それは人殺しになるのではないか? そう思うと、勇気が出なかった。
自分が自然に起きられたのだ。その時が来れば、きっとまた誰か起きるだろう。下手に手を出して殺してしまうよりも、そっちの方がずっといいと思った。そしてそれは、案外早く訪れた。
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