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勢いよくカーテンが開かれる音。まぶた越しに光を感じて、ぎゅっと目を閉じた。
「ほら起きて。朝ご飯が冷めちゃうよ、孝治」
柔らかく、少しだけ厳しい声色。
それから逃げるように、僕は体を捻って布団に包まった。いつもの時間なら、あと五分くらいは寝ていられるはず。
けれど陽姉ぇは諦めが悪い。僕を揺すっては、耳元で話しかけてくる。
「またゲームで夜更かししてたんでしょ」
「ち、違うってば……」
ああ、会話が成り立ってしまった。一気に遠ざかる夢の世界。
薄く片目だけ開けると、陽姉ぇはニッコリと笑っていた。こうなったら目を覚ますしかない。
睡眠時間、そんなに姉さんと変わらないはずなのに。
「はぁ……やっと金曜日だ」
「だね。孝治、すっごい寝癖だよ。ちゃんと直しなさいね。先に下行ってるから」
「ん」と返事をして、僕はベッドから抜け出した。姉さんの髪が長い所為か、シャンプーの匂いがする。僕と父さんには使わせてくれない、姉さんと母さんだけの香りだ。
手早く制服に着替えて、よしと気合を入れた。
父さんは早朝に出勤。それに合わせて母さんも食事をとる。なので平日の朝食は、僕と姉さんの二人だけ。
陽姉ぇとの朝食にテレビの音は要らなかった。学校での出来事を笑顔で聞いてくれる陽姉ぇが、僕は好きだ。
「忘れ物は? ハンカチ持った?」
「大丈夫だよ、陽姉ぇ」
「偉い偉い。それじゃ、行ってきまーす」
台所に居るだろう母さんに呼びかけて、僕と陽姉ぇは家を出た。
外は雲が散った晴れやかな天気。雨上がりで、冷たくて湿った空気が心地いい。
「はい、孝治」と手を差し伸べてくる陽姉ぇ。僕は溜息で、それに応えた。
「もう高校生なんだし、そういうの止めてって」
「いいじゃないの。いくつになっても孝治は弟でしょ」
「そうだけど……恥ずかしいから。普通じゃないってば」
僕が横を通り過ぎると、陽姉ぇは追い抜いて後ろ向きで歩き出した。むくれて眉根を寄せた表情は、一つ歳の離れた僕よりも幼く見える。
「せっかく同じ高校なんだから、通学の時くらい仲良くしたいじゃない」
「同じ高校だから気まずいんだよ。友達に変な噂とかされたくないし」
「変な噂って?」
「それは、その……」
僕が言い淀んでいると、どうでもいいことだけ察する陽姉ぇは、クスクスと笑った。
「平気、もし孝治に彼女が出来そうになったら、ちゃあんと私から説明してあげるから」
「余計に拗れそうだけど――あ、危ない!」
「え?」
パシャン、と弾く。僕が気付いた時には、姉さんの片足は水浸しになっていた。浅い所だったのが不幸中の幸いだ。
「前向いて歩かないから」
「あちゃ~……まあ、そういう日もあるよね!」
誰よりも、どこまでも前向きな微笑み。
人のことは心配するくせに、自分のことになると気にかけない。
そんな陽姉ぇも、僕は好きだ。
すし詰めになった登下校のバスを降りて、数分。学校の正門が見えてきた。遅刻を許さないであろう指導部の先生が、今日も行き交う生徒達に挨拶をしている。
「おはようございます!」とハキハキした陽姉ぇに隠れて、僕も小声を出した。そうしないと姉さんに怒られるのが怖いからだ。
「おはよう。副会長に弟か。ほんと、朝だけは元気いいな」
「えー、そんなことないですよ、先生! いつも元気ですぅ!」
陽姉ぇの明るい返事に、先生は信じられないものでも見たかのように顔を引きつらせた。僕は姉さんの手を取り、足早に正門を抜ける。
下駄箱の付近になって、優しく握っていた手が離れた。
「……こういうことを校内でされるのは……困ります」
落ち着いた、少し照れてそうな声色。
振り返ると、整った前髪が右端に寄せられていた。静姉さんは鞄の中から、僕が誕生日にプレゼントした伊達メガネを取り出して掛ける。
片足が濡れているのに気付くと、ちょっとだけ不快感を示した。
日の光で反射したレンズには、気まずそうな僕が映っている。
「孝治くん、いくら姉弟とはいえ、最低限の節度は守ってください。でないと人間関係に支障が出ます。勘違いされるのは嫌でしょう? お互い」
「……はい」
「よろしい。聞き分けがいいの、私は好きですよ。さ、学問に励みましょう」
「今日も頑張ってね、静姉さん」
「ええ、孝治くんも。あと学校では副会長と」
「そっか、ごめん」
微かに口の端を歪ませて、静姉さんは軽く手を振った。
生徒会副会長である静姉さんは、男子の憧れの的でもある。品行方正、清廉潔白の服を着たような人柄は女子にも人気で、同級生にまで『さん付け』されているのを、よく見かけていた。
もちろん、僕にとっても誇らしい姉だ。それだけ妬まれる対象にもなっているのだけれど。
やっかみ、学業で僕が静姉さんの力になれることは無い。
でも、せめてストレスの捌け口くらいには、役に立ってあげたいと思う。
静姉さんと別れて、あっという間に放課後。
学校の代わり映えしない授業は退屈で、クラスメイトとの交友も平坦な道を眺めているようだった。
どこもかしこも色が変わらない。つまらない。
ぼんやりと茜空を見上げながら、下校していく。
ふとバスの停車場で、見知ったポニーテールが風になびいていた。ベンチで大きく足を広げ、両肘を背もたれに掛けている。ぱっと見で関わりたくないとしか思えない。
「お、待ってたぜ、コージ」
巻き舌で、少し嬉しそうな声色。
ベンチを揺らして勢いよく立ち上がると、手提げ鞄を後手に担いだ。
「……逸姉ちゃん」
「おいおい、嫌な顔すんなよ。姉ちゃん悲しくなっちまうだろ? コージには、いつも笑っといて欲しいんだ」
「……僕、家で宿題を片付けないといけないから」
「硬いこと言うなよぉ。昔っから姉ちゃんには逆らうなって教えてきたよな」
「今日はゲーセン? それともカラオケ?」
「いんや、ボーリング。たまの休みなんだ、付き合ってくれよ。宿題なら土日にでも出来るだろ」
逸姉ちゃんはズルい。悪魔のような笑みをするかと思えば、今みたく捨てられた子犬のような顔にもなる。これじゃあ断れないじゃないか。
僕は大きく息を吐いて、首を縦に振った。
「わかった。やるからには楽しもう」
「へへっ……そうこなくっちゃ!」
遊び倒して日が暮れ、帰宅。
晩ご飯も済ませたところで、僕はトレイを持って二階へ上がった。
姉さんの部屋の前で、ノックを二回。
「入るよ」
返事は無かった。僕はトレイを片手に持ち替えて、ドアを開けた。
部屋の中は薄暗く、間接照明の淡いオレンジ色に包まれている。特に目を引くのは、ベッドの上で膝を抱えて座り、布団を覆い被さっている姉の姿。
いつものように、ミニテーブルの上へ晩ご飯のトレイを置く。僕は姉の真正面まで行くと、カーペットの敷かれた床に腰を下ろした。
「冷めない内に食べてね、姉さん」
「……うん」
儚げで、少し寂しそうな声色。
そうは言っても、僕が話し終えるまで食事が喉を通ることはない。
膝の奥にはクシャクシャになった髪と、不安げに僕を見つめる瞳があった。
「今日も、聞かせて。私、どんな感じだった?」
「それじゃ……朝から話すね」
まるで罪滅ぼしのように語る。
僕が壊して、バラバラに振ってしまった――万華鏡のような姉達。
全ては一つの筒の中。互いの色が鏡に反射して、美しく彩る。
この歪で退屈しない日常は、僕が生んだ執念の果てなのかもしれない。
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