クマのぬいぐるみと僕

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クマのぬいぐるみと僕

彼女は横を向いてぐったりと倒れている。 彼女の体から赤い液体がどんどん溢れて止まらない。 でも、腕だけは何かを守るようにがっしりと握っていた。 彼女の腕から、小さな茶色の犬がひょっこりと顔をのぞかせた。 尻尾をふりふりさせて、つぶらな瞳でこちらを見ている。 僕は彼女から溢れる血を止めるために、彼女の体に両手を強く押し付けた。 止まってくれ、止まってくれと何度も強く願った。 彼女の体から溢れていく血も、時間も全て。 微かに口を動かすのが見えて、僕は彼女の口元に耳を寄せた。 「ごめんね、きっといつか戻れるよって嘘ついて」 彼女は掠れる声で言った。 「神様にね、生き返らせることはできないけれど、違う姿で数ヶ月前に戻すことはできるって言われたの」 僕は力のない彼女の手をぎゅっと握った。 「だったら、あなたにもらったクマのぬいぐるみになりたいな、と思って。願ったら、あなたのそばにいた」   僕は「後で聞くから、もう喋らなくていいよ」と言ったけれど、彼女は続けた。 「こういうときに思い出すのは、辛かったことや苦しかったじゃなくて、 私が生まれた時の両親の嬉しそうな顔とか、 ペットショップの前で初めてあなたに話しかけたこととか、 レストランで一緒に美味しいねって料理を食べたこととか、 そういう当たり前のようで当たり前じゃない日々のことなんだよ」 彼女の声はどんどん小さく、聞こえなくなっていく。 「幸せだったな」 彼女は最後にそう言って微笑んだ。 いつもの屈託のない優しい笑顔で。 僕は涙が枯れるまで泣いた。 もし僕が死んだら、彼女がそうだったように数ヶ月前に戻れるかなと思った。 クマのぬいぐるみになった未来(ミキ)でもいいから会いたかった。 でも、きっと彼女はそれを望んではくれない。 もし、戻ったとしても口を聞いてくれないだろう。 ただのクマのぬいぐるみのフリをするだろう。 僕は喋らなくなったクマのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。 ありがとう、ありがとう。 僕と出会ってくれて。 あの時に声をかけてくれて。 美味しいものを食べに行ったり、川原を散歩したり、遊園地に行ったり、目を瞑ると全てを鮮明に思い出す。 まだまだ彼女のいない世界に慣れない僕は、 これから何度もこのクマのぬいぐるみを子供のように抱きしめるだろう。 彼女と出会った日々を抱きしめながら、明日を生きるそのために。
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