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暗い 明るいのは、夜空の星だけだ。 窓から差し込む光は優しい。 窓越しに立ち上る珈琲の湯気が頬に触れる。 疲れたんだ… 自分が置かれた状況や俺の人生の行く末も、本当はもう、考えたくないんだ… 俺に慰めはない… 静かな夜の森の香りのなかで目を閉ざし、心のなかで呟いた。 神様に見捨てられたとは思いたくない… けれど、それじゃあ、この気持ちをどうしたら良いのだろう… 誰かのせいではない それなのに、現状を受け入れられずにいるのは、俺が聞き分けのない子どもと同じだからなのかもしれない。 静寂のなかで、声が聞こえた。 俺の名前を呼ぶ声がしたので、目を開けた。 「先生…」 窓越しに、彼はひらひらと手を振った。 乱れた長髪の髪 薄汚れた服 少なくとも、彼を見て印象がよいと思う人はいないだろう。 それでも、こちらに満面の笑顔を向けるので、少しは心をゆるしたいと思う。 昔から変わらないな… 俺の大学時代からそうだ 研究室の彼の姿を思い出した。 彼は集中すると部屋に籠り、研究以外のことは考えられなくなるのだ。 そして現在も、籠り癖は続いている。 いまは研究室ではなく、山小屋に籠っているのだが… 彼は、乱れた髪に手櫛をしながら、こちらに近づいて来た。 「そんな他人行儀な言い方はやめて欲しいな…先生、じゃなくて”善(ぜん)”だよ…。」 「じゃあ、善さん…。」 「何で”さん”つけて呼ぶの?」 「目上の人の呼び方には、こだわりがあるんです…。」 「こだわりじゃなくて、壁があるんだろう?」 「…おっしゃるとおりです」 本当の自分を見せたいと思う人間はいない。 例えそれが、恩師であっても… 「ところで、どうして突然、俺に会いに来たんですか?」 「これ…」 善が差し出したのは、花柄のハンカチだった。 ハンカチに入っている名前の刺繍に目がとまる。 「彼女の忘れもの…」 「どうも…」 ハンカチを受け取ると、背中を丸め上目遣いで善を見つめた。 そして、善は俺が恐れていたことばを口にした。 「よかったね…彼女は、君の母親なんだろう?」
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