今日も世界はこんなにも明るい

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 大人たちは幼い私に「夢を持ちなさい」と言った。大人たちは大人になった私に「夢見るのはやめなさい」と言った。大人とはなんて身勝手な生き物なのか。なんて残酷な生き物なのか。  今日も今日とてサービス残業。世はやれコロナだ、やれ自粛だなんだと騒いでいるが、私には関係のないことだった。家賃6万5千円のアパートに帰って来たのは23時を過ぎたころだった。寝るだけに存在するような狭いワンルーム。しかし最近はその役割すら果たせていない。……何故かわからないけど、眠れないのだ。ドアと閉じ鍵を閉めると、真っ暗闇が広がる。自然とため息が出た。手探りで電気のスイッチを押した。数秒後に電球がつく。しかしどうも薄暗い。天井を見上げると、玄関近くの蛍光灯はついているのに、部屋の奥のほうの蛍光灯が半分以上ついていなかった。再びため息が出る。……次の休みに買いに行かないと。  何度もこんな仕事辞めてやると決意した。何度も、何度も。それでも私は今の生活にしがみついている。どうやら人間は変化を嫌う生き物らしい。どんなに苦しくて現状に不満を持っていたとしても、見えない不確かな新しい未来より、このどうしようもない現在を選んでしまうようだ。 「あぁ、こんな生活嫌だ、辞めたい」 知らぬ間に呟いていた。『このご時世仕事があるだけ有難いだろう、文句言うな』なんて声がどこからか聞こえてきそうだが、そんなこと知ったこっちゃない。  無理して履いてた8センチのピンヒールを乱暴に脱ぎ、窮屈なスーツとシャツはそのままフローリングの床に投げ捨てた。もうハンガーにかけることすら面倒くさい。下着姿のままキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。 いつもストックしてあるはずのペットボトルのお茶をきらしていた。これからコンビニに行くのも面倒くさい。仕方なく、蛇口の取手を上げてグラスに水を注ぐ。シンクを見ると、洗わずに溜まったままの食器が目に入ったけど、見なかったことにした。ゴクリ。水道水は、ぬるくて美味しいとは言えないが、喉の渇きを潤すことだけはできた。  薄暗い部屋の中を歩く。ベッドに腰掛けて、テーブルの上のリモコンを取り、テレビの電源を入れる。チャンネルをポチポチと変えながら、この時間はたいして面白い番組やってないな……なんて思っていた時だった。 「……あ」 私はチャンネルを変える手を止めた。画面に映し出されたのは、今売り出し中の4人組の若手ロックバンド。画面中央に立っている男に、思わず目が行く。 「ナオじゃん」 あの頃は、ブリーチのしすぎで傷んだボサボサの銀色の髪、ダボダボのTシャツに、ダメージジーンズを履いて、ステージではギターをかき鳴らし、片っ端からファンの女に手を出していたアイツも、今では、目まで隠れるような黒髪マッシュヘアで、襟付きの白シャツのボタンはきっちりと閉め、アンニュイな雰囲気を演出している。それを見て思わず私は笑ってしまった。……笑った後で、悲しくなった。  ナオと私は最大のライバルであり、最高の恋人だった。いや、今思うと、浮気ばかりしていたナオは恋人としては最低だったのかもしれないけど。  ナオのバンドのメジャーデビューが決まるのとほぼ同時に、私のバンドは解散した。いつかは大きなステージに立てると夢見て頑張ってきた。あらゆることを犠牲にして、人生の殆どを費やしてきたバンドが、こうもあっさりと無くなってしまうなんて、思ってもいなかった。ナオと二人で片寄合って暮らしたあの狭い6畳のボロアパートは、就職すると同時に引っ越した。どうやらその後、アパートは取り壊されて、コインパーキングになったらしい。  バレーコードも握れないような下手くそなギター、音程の外れたボーカル、そんな彼が選ばれて、私が選ばれなかったのは何故なのか。私のほうがギターの技術は上だったし、歌も私のほうが上手かった。  それなのに何故。一体何故。音楽の神様にナオは選ばれた。でも、私は選ばれなかった。その違いは一体なんだったのか。今もそれがわからずにいる。いや、わかってはいるけと、納得できずにいるのだ。  いつの間にか、番組はCMに移っていた。私はテレビの電源を落とした。真っ白な壁に寄りかかると、ベッドのスプリングがキシッと音をたてた。ふと部屋の隅に目を向ける。そこには、埃を被った赤色のグレッチのエレキギターがあった。生活費のためにアンプもエフェクターも売ってしまったけど、どうしてもこれだけは売ることができなかったのだ。  ベッドから身を乗り出し、ギターに手を伸ばす。すると、フレットと弦の間に挟んでいたピックがフローリングに落ちた。 「……はぁ」 ため息をついてベッドから立ち上がった。ピックを拾い上げ、ギターを抱えて、再びベッドに戻る。……こんな埃だらけになっちゃって可愛いそうに。今まで放っておいてごめんね?  手で埃をはらってからネックを握る。人差し指、中指、薬指でフレットを押さえる。ギターを買って初めて覚えたのは、このCコードだった。この簡単なCコードでさえも、弾けるようになるのに、2週間近くかかった。何度も心折れそうになったけど、いつかは絶対弾けるようになるという確信があった。ピックで弦を弾く。が、案の定チューニングが狂っていた。そういえば、チューナーはどうしたっけ?アンプと一緒に処分してしまったのだろうか。思い出せない。仕方なく、チューナーなしで勘で音を合わせることにする。うん、いい感じだ。再び弦を弾くと心地よい音がした。  ゆっくりと瞼を閉じて、あの日の光景を思い出す。息苦しささえ感じる狭いライブハウス。煙草のにおい。淡いスポットライト。スピーカーから吐き出されるギターサウンド。足の裏からビリビリ伝わる重低音。……あの頃は楽しかった。  瞼をゆっくり開く。何故だか蛍光灯の明かりが煩わしく感じた。天井の蛍光灯から伸びた紐を引っ張ると、暗闇に包まれた。あんなに狭く感じたこのワンルームも、暗闇になれば少し広くなった気がするのは何故だろう。そう言えばこのアパート楽器禁止だったっけ、なんて思いながらも、弦を弾く。Fm7、E7、Am7、Cm7。弾きなれたコード進行。鼻の奥がツンとして、視界が滲む。悲しい。苦しい。つらい。  未だに過去に囚われ、あの日の思い出の中に逃げ込んでいると知ったら、ナオは私を笑うだろうか?  音楽に費やした時間は、結果的に無駄だったのかもしれない。だけど、音楽なしには私は生きていけなかった。それ以外に道はなかったんだ。  狭い部屋に響くギターの音色。それを聞いていたら不思議と心が穏やかになる気がした。私に絶望を与えたのもギターだったけど、再び希望を与えるのも結局ギターだった。 チュンチュンと鳥の鳴く声が聞こえた。いつの間にかカーテンの隙間から、光がさしていた。 「また眠れなかったな……」  眠れないのはいつものことだけど、今日はちょっぴり心が軽い気がした。 ギターをベッドに置いて立ち上がる。カーテンに手をかけ、思い切り開いた。あまりの眩しさに思わず目を細める。嫌味なくらいに晴れた青空が、窓の外に広がっていた。  私は思った。0か1のデジタルの世界に生きていたのならどんなによかっただろう、と。デジタルの世界なら、昨日のことは完全にリセットして0に戻せるのに。そして真っ新な気持ちで朝を向かえられる。だけど、人間はアナログの世界に生きている。止まることなく続く曲線の上に立っている。過去も現在も未来も切り離すことはできない。  どんな夜にも必ず朝が来る。それは無情ともいえるし、希望ともいえる。  ああ、今日も世界はこんなにも明るい。人々の不安や悲しみなど素知らぬ顔で、今日も太陽は昇る。……私もこれくらい厚かましく生きていければ楽なんだろうか。澄んだ青い空を見上げながら、ひとり笑った。  過去は消せないし、未来は見えない。だけど生きて行く。どうしようもない私で、今日も生きていく。
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