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「津田さんですが、十年前に行方不明になっています」
「……」
「お母様の再婚相手とうまくいってなかったらしく、届けは出されましたが家出として捜索はほとんどされていません。成人していましたし」
話を聞いているだけなのに、やけに喉が渇く。
いつの間にかカップの中のコーヒーはぬるくなっていた。
「依頼は十年前の津田さんについてでしたが、現在の様子も報告できればと思って、もう少し調べてみたんです」
やはり思った通り、笹倉さんはすごく真面目な人だ。
「ところで今から八年前、津田さんの家とはちょうど逆方向にあたる隣県の山の中で、身元不明の遺体が見つかりました。歳は二十代の半ばくらい、男性です。身長は百八十センチ以上と高めでした。死後一年以上たっていて、身元が分かるようなものはありません」
「……」
「服はボロボロになっていましたが一つ、はっきりと形が残っているものがポケットの中にあったそうです。僕、知人にその写真見せてもらいました。可愛いマスコットのついたキーホルダーです。お土産コーナーとかによくある」
「キーホルダー……あったんですか」
「鍵からちぎれて、マスコットだけがポケットの中に残ってたみたいです。それで、ちょうど津田さんのSNSに、よく似たキーホルダーが写ってました。柴岡さんとお揃いで買ったんですね」
「……」
「僕、これを柴岡さんに返そうと思います」
笹倉さんが鞄から取り出したのは、お金が入っている茶封筒だった。
「依頼の時に頂いた前金ですが、すみません。僕、柴岡さんに報告書をお渡しできません。だからこれはお返しします」
「……いえ。これは調査に使ったお金でしょうから」
「これを受け取ったら僕の気が済まないので」
絶対に引かないという強い調子で押し付けられた茶封筒を、私は受け取るしかなかった。
「探偵にはもちろん守秘義務があります。けれど重大な犯罪を内緒にできません。もしかしたら、柴岡さんの不利になる証言をすることもあります」
「……犯罪」
「遺体が発見された時の記事によると、首には絞められた跡がありました」
「そんなことまで分かるんですね。二年も経っているのに」
「ええ、二年も経っているのに。今から十年前、柴岡さんは一か月お仕事を休んでいましたが、その間どこにいたのか、まわりの人は誰も知らないそうですね」
「あの人と別れたあと、会社に行く気力もなくて」
「遺体が見つかった場所、夜景スポットで有名な場所への近道なんです。普段はあまり車の通らない道ですが」
「そうですか」
「でもこれ、全部僕の想像に過ぎません。柴岡さんが津田さんを殺したという証拠は持ってないんです。探偵は人を裁く仕事でもありませんし、今ここで柴岡さんから真実を聞き出そうとは思っていません。ただ、ひとつだけ……」
困ったような顔のまま、笹倉さんが私を見つめる。
本当に、あの人が歳をとったらこんな感じで話してくれるのかもしれない。
「ひとつだけ教えてください。どうして私に津田さんの調査を依頼したのですか。わざわざ調べなければ、もう十年も前の、誰も思い出さない話なのに」
「あの人が、消えないんです。仕事をしているとき、寝ようとしたとき、……誰かを好きになったとき」
忘れようとしたのに。思い出も何もかも、全部捨ててしまったのに。
「あの人が私を捨てたの。私のせいじゃない。きっと他に女がいたからっ」
「津田さんが浮気していたなら、あなたの行為は正当化される?」
「そうです。あの人が悪いから」
「じゃあ僕の報告を聞いた今はどうですか?」
「……信じられません」
「僕、思うんです。僕の言う事が信じられなくても、柴岡さんの心の中ではもう分かってるはずです」
「悪いのは彼です」
「それを他人に肯定してほしかった。なぜならあなたの中で疑問が生まれていたから。今はもう、自分の心を偽っていると分かっている」
違う。
私は。
私は……。
誰かに知ってほしかったのだろうか。
私が捨てようとした思い出を。
どうしても捨てられなかった過去を。
本当はずっと、誰かに案内してほしかったのかもしれない。
私が間違ってしまった道まで手を引いて、連れて行ってほしかった。
ここで間違ったんだよって。
「僕はこれから警察に行こうと思います」
笹倉さんは立ち上がって、私に背を向けて歩き始めた。
そして振り返る。
少し困ったような顔で、私の目を見る。
「柴岡さんも一緒に来ますか?」
そう言うと、彼は私に向けて手を伸ばした。
【了】
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