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あなたと朝の散歩を
夜ノは不満げに唇を尖らせていた。
世界の暗がりは晴れ、太陽が戻ってきていた。夜ばかりの景色は終わったのだ。
きっと、ずっと昔に見た絵本のように空は爽やかに青く、花は鮮やな紫で垂れ込めているはずだ。記憶の中に広がる水彩絵の具で描かれた光景は、しかし、霞んだように滲んでいる。
目が光を失ってから随分と時間が経ちすぎていた。
青とはどんな色だったか、紫とはどんな色だったか。
なにか美しいものが自分の目の前に広がっていたはずなのに、最後に記憶にある景色は目を焦がしたうねる赤い炎の舌だった。
あれからずっと、自分は世界を覆う夜よりも深い暗闇の中を歩いてきた。
だが、そのことが彼女の心に影を落とすことはなかった。
彼女は一人ではなかったからだ。
「なのに。
明るくなってしまったようだから」
夜ノの定位置は、街の公園に置かれた長椅子だ。彼女は知るよしもないが、その長椅子は欅の影の中にあり、今、夜ノを光から覆うように茂っていた。
近づいてきた足音を彼女の白い耳が聞き取った。聞き慣れた足音だ。彼はいつも足音を立てる、本当はそんな音すら消すことができるはずなのに。
「今近づいていますよ」と遠くから自分に教えているのだと、夜ノはすぐに理解した。
足音へ向かって声を掛けると、「ふむ」と返事があった。
「私だけ置いていかれてしまった気分だわ。
同じ夜を見ていたと思ったの」
目の前を閉ざされたところで、悲しくも寂しくもなかったのだ。暗いのは自分だけではなかったのだから。
はあ、と夜ノはつまらなそうにため息を吐く。まさか自分がこんなにもあの暗闇に寄り掛かっていたとも思ってもいなかった。
「あっちに行って、もずさん。
今、きっと私、とてもブサイクだから。兄様にも見られたくない顔をしているわ」
「確かに、夜ノちゃんにしては珍しい顔をしているね」
「ちっとも楽しくないのだもの」
手にしていた白状で地面を突く。杖に括り付けた鈴がりんと鳴った。
不貞腐れた夜ノの声に、軽く相槌を打つように笑い声が返ってきた。そうして、もう片方の手がそっと静かに取られる。
その手は乾いて温かい。
「みんな君を置いてったわけではないよ。
君が心を寄せていた夜のように、案外太陽もみんなに優しいものだ」
こっちおいで、と物集は声を掛けた。
夜ノは立ち上がり、物集に引かれるままに一歩二歩と歩く。
「夜ノちゃんにも太陽は見えるよ」
彼が手を引くその指先が、不意に暖かさに包まれた。
それは、今自分の手を取っている彼の温度に似ている。
欅の影から白い指先が出ているのを、物集は見ていた。光の温度を、この聡い女性が分からぬはずがない。
あるいは知りたくはなかったのだ。とうにその暖かさを知っていたから。
知ってしまえば、もっと知りたくなる。
その色は、景色は、感情は。
同じ夜は知っていた。だが、自分はこの朝の光景を知らない。致命的な違いになってしまう。そして、自分はその致命的な光景を見てみたいと願ってしまうのだろう。
なんてことをしたのだ、この男は。
もうこれでは、「だってわからない」などと卑屈になることもできない。
「ひどいわ、もずさん」
「そうだね。君に光を教えてしまった責任はしっかり取らせてもらうよ」
「本当? 約束よ」
「男に二言はないねえ」
穏やかな声をしている。最初から覚悟済みでここに来たのだ。
夜ノは楽しくなってしまって、できるならば彼の両手を取ってくるくると回ってしまいたかった。
光の温度は彼女の手を温め、夜ノは気づく。
自分の手を取った乾いた手を取り直した。こちらを見下ろしているだろう彼の方へ頭を向ける。
「では今日はお散歩に付き合ってくださいな。
ここにいらしたのだから、今日はお非番でしょう」
「ご明察。お嬢さん、どちらまで?」
「貴方が好きな景色のあるところまで案内してくださいな」
一つ一つを拾い上げるように、彼は夜ノへ自分の見ているものを教えてくれるだろう。
彼を通して朝を見る。それはどんな光景だろうか。
光に温められた自分の手が握る彼の手を、夜ノは少し冷たく感じた。
凍えた夜にいまだ半身を浸しているのはこの男の方かもしれない。自分を暖かな朝へ引っ張ったくせに、どういう了見だろう。
交わした約束の下、夜ノは長い散歩を決めていた。
この手が自分と同じ暖かさに満ちるまで。
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