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陽が落ちていた。台所から漂う良い匂いが窓から抜けて、家の外まで漂っていることだろう。これ以上待つならスープは温め直しが必要かもしれないなと考えながら窓の外を眺めていると、物音がした。ユールクリスが帰宅した音だ。
「おかえりー。ご飯できてるよ」
「……まだ、居たのか」
「えっ」
何だその言い草は。ひょっとして見張りの一つもなく俺を家に放置したのは、穏便に逃げる機会を与えてのことだったのか。そうと気づかず俺はチャンスを棒に振ってしまったのかもしれない。
どことなく遣る瀬無い気持ちが肩を叩くが、一瞬でも元気がないように見えたユールクリスはいつもの調子を取り戻したようだった。立ったままつまみ食いしようとする手を慌てて止めて、先に着替えてくるように促す。土埃だらけの服で食卓に着いてほしくなかった。
「手を洗うまで食べたら駄目だ。つまみ食いしなくても、もう出来てるんだから着替えておいで」
こういうときユールクリスは俺に「弱いくせに口うるさい奴だな」という顔をするが、結局何も言わない。のそのそと寝室まで着替えに向かった。
「おい」
「ん? うわっ」
部屋を出る直前、思い出したように脚が止まる。手に持っていた荷物のうちそれなりの大きさのある何かがこちらに投げ渡された。慌てて受け止めると、ずしんとした重みが腕の中に収まる。
「なに……ひッ……!?」
「土産だ」
「あ、う……うん、ありがと……」
にこりとも笑わない彼のこれは決して嫌がらせではないことを信じて礼を言う。俺の腕の中では苦悶の表情を浮かべるデーモンの頭部が恨めしそうな目でこちらを睨んでいた。
実際、嫌がらせではないのだろう。ただ人間と魔族では食文化が違うだけで。デーモンの脳みそと目玉はその希少さから珍味として知られているらしい。俺からしてみれば、魔族だって魔物は食べるけどデーモンは食べない。彼らは俺と同じ言葉を解し、文化と知性を持つ魔族だから。
「本当にごめん……今度ちゃんと美味しく食べるから……」
人間にはその区別がつかないのだろうと、頭ではわかっている。それに同胞への罪悪感と人間への嫌悪を覚えないかは別として。
外へ出た彼は度々俺にこういった土産を持って帰る。それは早朝の市場で仕入れた新鮮な果物であったり、街の露店で買える手軽な惣菜であったり、こうして今のように魔物を狩った戦利品であったり。大体は食料であることが多い。惣菜はともかく果物や珍味は食材を置いている一角に並べる他になく、こうしてハムスターの巣穴よろしく積まれた食料は増減を繰り返しているのだった。
パンに焦げ目をつけてスープを温め直している間、先に出来上がっていた食事を卓に並べる。
塩胡椒でシンプルに味付けした肉の塊は自信作で、案の定ユールクリスの視線は湯気を立てるステーキに釘付けだった。焼き方を何度も改良したからな。俺はあまり生に近いのは好きじゃないからしっかり焼いたウェルダンを、彼には切ると赤い肉汁が滲み出るミディアムレアを皿に盛る。それにしてもこれ、何の肉だろう。牛肉じゃなさそうなんだけど。
聞くのが怖くて毎回聞けない言葉は切り分けた肉と共に咀嚼して飲み込む。牛肉で言うところの肩ロースっぽい程よい食感と濃厚な味は食べ応えがあるので、なるべく気にしないことにした。美味しいお肉に罪はない。
「……街に出たいか」
「ん?」
ステーキに添えた破裂させてしまったししとうを齧る俺に、ユールクリスがおもむろに口を開いた。口が大きいのか食べるのが早くて、俺が半分食べている間に皿の上が空になっている。いや、まだししとうが残っていたので「食べ残しは許さないぞ」の意味で顔をじっと見つめると、嫌そうな顔をしながら食べてくれた。うん、好き嫌いはよくないよな。
無言で咀嚼したあと水を一杯飲み干すと、仕切り直したように再び口を開く。
「あの廃屋は村を出るときに潰した。村人にもお前が魔族だと伝えてある。ここから出ても、お前に帰る場所はねえ」
「ん……知ってるよ、村の人には石投げつけられたもんな」
身寄りのない醜男ならと置いてやったのに、恩を仇で返しやがって。
そう叫ばれた。投げつけられた石はなかなか鋭く、咄嗟に剥き出しの角を庇ったから手の甲を切ったのを覚えている。去り際、ユールクリスが村の敷地に立てられている守護結界用の魔石に何かしていたように見えたが、きっと気のせいだろう。地面に魔物の誘引剤を撒いていたように見えたのも、たぶん気のせい。俺はなにも見ていない。それに、あの匂いで寄ってくるレベルの魔物ならスライムより1、2個ランクが上なくらいのものだから、村人だけでもどうにかなるはずだ。群れで襲われていたら何人かは助からないだろうけど。
まあ、そんな感じだから別段あの村には未練なんてものはない。どうしてそんなことを言うのだろうか。
「外に出てどこに行くつもりだった」
「どこ? 具体的にはないけど……うーん、どこだろう」
正直どこに行っても安全な土地なんてないと気づきつつある。人間はひしめき合って暮らしているし、彼らは俺に優しくない。人間のいない土地には人間の手に負えない強い魔族が住んでいる。
こうして考えると、この家の中というのは少なからず安全な住処かもしれなかった。
「ここ以外ならどこでもいいってか」
こうして低い声で威圧するユールクリスさえいなければ。やっぱり駄目だ、この家に彼といる限り、俺には常に死が身近な存在になってしまう。
「魔王様が人間と魔族の土地をきちんと線引きしてくれたら安心して暮らせるんだけど」
俺が元々住んでいたところは人間に侵略されて人間の土地になってしまった。
王都に近いほど縄張り意識は薄れるが、田舎ではよそ者にあたりが強いのは人間も魔族も同じだ。だからどうせよそ者扱いされるなら、新しい住処を探すには魔族の土地よりも人間の土地のほうが勝手がよかった。
けど、魔王様がはっきり『ここは魔族の土地である』と表明してくれれば、ひょっとしたら俺は元の土地に帰れるかもしれない。元の土地でなくとも、そうした線引きがされれば俺のようにあぶれた魔族は少なくないはずだ。そうした者たちを受け入れる処置がきっと何かされるはず。
そうだ、それがいい。偉い人に庶民のご意見を聞いてもらうんだ。それで事態が好転しなければ、同情を引いて魔王城で働かせてもらえないかな。この通り炊事と掃除くらいなら自信がある。自分で言うのもなんだけど、仕事熱心なほうだと思うし。
「魔王城、行ってみたいなぁ」
考えがそのまま口から漏れてしまった。あっと思い慌てて唇を引き締めると、目の前ではユールクリスが難しい表情でこちらを見ていた。
「……勇者として復帰する。旅の出発は明々後日だ」
「え?」
聞き直したが返事は返ってこなかった。まさか今の会話で、当代最強の勇者が復帰を宣言するとは思わないだろう。
どうやら俺は、何か重大な選択ミスを犯してしまったらしい。
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