日記

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日記

 私は同棲していた彼を殺した。首を絞め、包丁を刺し、殴り、噛み。別に浮気されたとか、そういうことは一切なかった。彼のことは同棲していた三年間、愛し、妬み、憎み、殺意を向けていた。この三年間は殺すための準備期間に過ぎなかったし、幸せだと思ったことは一時もなかった。この千九十五日は長く、そして桜の花が地面に落ちる一瞬よりも早く過ぎていった。  私と彼は小説家だった。しかし中身はまるで違った。彼は「恋愛小説家の超新星」と称号を被せられ、売れっ子となった。私はそれがうらやましくてうらやましくて堪らなかった。私も同じ恋愛小説家としてデビューしたが、彼とは違い単調なつまらない小説を世に送り出し、本屋の隅に展示されるような駄作を量産するただの底辺作家だった。  彼の小説に出会った瞬間、胸が熱くなるような感覚に襲われた。初恋が小説だとは口が裂けても言えないものの、この日記では記述できる。この現代社会において、超有名のタレントやアイドル、配信者などにいわゆる「ガチ恋」と呼ばれる恋をする若者も少なくない。だが、私のように作家ではなく小説に恋をするものなんていないだろう。  ロマンチックな小説にとって、本人がロマンチストではないと現実的なものにならないことが多い。私に比べて彼はロマンチックだった。恋愛経験も豊富で、口説き方がプロのそれだったことを覚えている。私のファーストキスは彼とだし、純潔を散らした相手も彼だ。社会人になってからのそれはおそらく恥じるべきことであると思う。それほど私は陰の存在でった故、彼と交際できたことは奇跡であるというべきだった。  二度目だが、私は彼のことを愛し、妬み、憎んでいた。だから彼と付き合い、同棲したし、殺した。彼を殺したのは「美納七海」だ。    日記はここで終わっていた。この文章を書くために買ったのかと思うほどに余りページが多かった。 「美納七海」という名前は今初めて知ったが、腐ってもプロの小説家。文章が洒落ている。  さて、我々警視庁捜査一課が任された「三枝すばる殺人事件」だが、この日記の発見ですべてが解決してしまったようだ。「三枝すばる」の本名は斎藤昴。彼は「美納七海」というペンネームを持つ木島七海と交際しており、斎藤が夢に溺れた午前零時ごろに木島が彼を絞殺したと推測される。というか、それはほぼ確定だ。斎藤の首には木島の指紋が付着していた。  この日記からもわかるように、木島は斎藤に対して猛烈な怨みを抱いていたらしく、窒息が死因なのにもかかわらず多数の刺突の痕が残されていたり、顔には痣や、あろうことか歯形まである。  それらの証拠すべてに木島の指紋が付着しているため、この女で間違いはないはずだ。だが、肝心の木島が見つからなかった。街中の監視カメラや警察官を総動員したとしても見つからないのであれば、どこか隠れられる場所に身を潜めているに違いなかった。  真夜中の公園というのは、本当に物静かなものだ。昼間はうるさい子供の笑い声がないし、夜はうるさい高校生の集まりもない。  こんなところで私は、今から首を吊ろうと考えている。そろそろ警察の捜査が始まるときだろうか。私が自ら「男が死んでいる」と通報したのでとっくに現場にはついているはずだ。  天井から吊り下がった太いロープ。私の顔二個分ほどの大きさの輪。今からここに首をかける。そうすると、私は死ぬ。  愛人であり敵であった人間を殺し、自分も死ぬとは。なんてロマンチックな恋愛小説なのだろうか。魅力的過ぎて反吐が出る。  正直、もうこんな世界にはこりごりだ。なぜ私の小説はあんなにも売れなかったのだろうか。私の小説が悪いんじゃない。あの男が私の創作活動を邪魔したのだ。私には才能があるはずだ。あんな駄作に比べたら、もっと大勢の人間を魅了し、恋愛のどん底に堕とす。そんな才能が、私には存在したのだ。なんであんな男に私の立場をとられないといけないんだ。なんで私はあんな男を愛してしまったのか。  怒り、後悔、様々な感情が入り乱れてくる。小説家なのかと疑うほどの駄文を、女性かと疑うほどの字を、書いてしまってすまない。  私は断頭台へ歩き出す。  破かれた何枚ものルーズリーフが、公衆トイレの壁に無造作に貼られている。  素人から見ても、「正直」から先の文は駄作としか言いようがない。これは、自らの心情をボールペンに任せているだけで、「書く」とは言えない。  彼女が「断頭台」と言ったそれには、真顔の死体が吊るされている。彼女は自ら犯した罪を、自らで断罪した。何を伝えたいのかもわからないようなその紙とともに。  彼女の死体は、警視庁によって速やかに回収され、この一大事件は幕を閉じたように思えた。普通、誰しもがこの事件はこれにて解決だ、と思うものが多いだろう。無名の底辺小説家が用意したストーリーは、序章に過ぎなかった。  彼のことを殺したくなったのはいつからだろうか。彼の小説に出会った時だろうか。彼と初めて会った時だろうか。彼と交際を始めてからだろうか。そんなこと、私にもわからない。というか、どうでもいい。目の前でくつろぐ男さえ殺せれば、私はそれでいいんだ。  話を変えよう。警視庁のことだから、どうせこういうところも見るのだろう。私が彼と出会った時のことを、記憶の限りここに書き記そう。  あれは蒸し暑い夏の日だったか。まだ大学生だった私は、とあるイベントに呼ばれた。私が書いている小説を出版している会社のイベント。決して大手というわけではないものの、私の駄作でも出版してくれるというのは、とても優良な会社だという証拠だ。  この時点で私は、「三枝すばる」の小説を網羅していた。表紙の幻想的なイラストに、現実味を取り入れながらも、理想的なシチュエーションの数々に、衝撃的なラスト。私には到底真似できない小説だということは、明らかだった。  この時は彼を殺したいと思っていた。だが今ほど強い殺意はなく、ただただ「殺せたらいいな」という、中途半端なことしか考えていなかった。  だから、私は出版社の社長を殺したのかもしれない。誰かを殺せば、こんなどす黒い泥のような考えを、払拭できるだろうと考えたからだ。  だからあの時は、乾燥もしてないのにハンドクリームを持ち歩く変な奴だと周りから思われていただろう。ビルに入ってハンドクリームを塗りたくり、社長と握手をしてトイレに入った時には、もう私の殺意は収まったとか、勝手な妄想をして自分を騙した。  だが、違った。イベントに足を運んでいた彼を見るなり、猛烈な殺意がつま先から頭のてっぺんまで押し寄せたのだ。「今すぐこのハンドクリームを塗って握手をしよう」「でも彼の小説が読めなくなるのは嫌だ」というくだらない葛藤の末、立ち去る彼をただただ見ていた、という結果になった。  「かわいらしい」という代り映えしない理由で彼の恋人になった私は、現在に至るまでの三年間、悪夢を見続けた。  グーグルの検索履歴で発見されたその文章は、殺害の二日前に執筆された日記だった。数年前に起きた「某出版社社長殺害事件」は未解決のまま終わると思われていたが、まさか彼女につながるとは思いもしなかった。  社長を殺したのは致死性の高い薬品で、奇跡的に残っていたグーグルの検索履歴と一致する。これも、数年前からこの事件があると確信していたのだろうか。  家宅捜索が終了したらしく、二人の小説家が住んでいたタワーマンションから続々と警察官が退場していく。なにやら興味深いものが発見されたらしいので、私は部下に話を聞く。  どうやら、結婚指輪があったそうだ。寝室に指輪ケースと結婚指輪が落ちていたとのこと。おそらく斎藤昴は、木島七海にプロポーズしたのだろう。だが七海は結婚を望んでいなかった。この同棲生活は斎藤を殺すためのものだったから。そうだろう?「美納七海」  私は星空光る天を覗いた。 「結婚してほしい」  裸でダブルベッドに寝転がる私は、明日に向け就寝の準備に入っていた。その時、どこからともなく現れた指輪が、ケースの中できらびやかと光っている。大きな窓の外から漏れるビルの明かりがそれを照らし、更に不快感を刺激する。 「こんな私でよければ」  昔から作り笑いには自信があったから、今回もそれで笑顔を生産した。吐き気を抑えながら笑顔を作るのは意外にも難しく、少し嗚咽をあらわにしてしまう。 「大丈夫か?」  喋るな、私からすべてを奪ったくせに。 「大丈夫。嬉しすぎて」  才能も、読者も、評価も。 「喜んでくれてよかった。断られたらどうしようかと思った」  結婚するつもりなんて微塵もない。彼が寝たら消すだけだ。 「断るつもりなんて微塵もないよ。私だって結婚したかったもん」  なぜだろう。猛烈に泣きたい。 「かわいいな。三年経ったけど、あんまりかわってない」  早く寝てくれ、お願いだから。 「これからもよろしくね。幸せな家庭を作ろうね」  本当は、作りたかったのかもしれないな。 「ああ、一緒に我が家の物語を作ろう」 「うん、おやすみ」 「おう」  愛している。うらやましい。嫌いだ。いつまでも、いつまでも、その感情は変わらない。だからこそ。死んでくれ。  死んでくれ、私の大っ嫌いな恋人。
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