十二

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十二

 少し間が開いた後、清水さんは続けます。 「みなさん、これまでたぶん一度は風邪をひいたことはあると思いますが、風邪の原因はいったい何か、ご存知でしょうか?」 「風邪って、風邪菌じゃないんですか?」マイクを持っていた政子さんが言います。 「”風邪菌”という菌はいないんですよ。菌とウイルスっていうのはまったく別物なんです。どこが違うかと言えば、もうあらゆるものが違うとしか言いようがないんですが、例えば大きさがまったく違いっています。モノにもよりますが、ウイルスは細菌の千分の一以下の大きさなんです」 「へえ、そんなに小さいんですか?」 「そうです。もちろん肉眼や普通の顕微鏡でも見ることはできません。電子顕微鏡という特殊な機械でようやく確認できるんです。ウイルスの姿を人類が写真で初めて捕らえたのは、タバコモザイクウイルスという、葉タバコに感染するものを一九三五年に撮影したのが最初だと言われています。つまり八十五年前のことになるんですが、これを大昔の出来事と取るか、つい最近の出来事と取るかは人それぞれでしょうけど、医学に長い歴史があることを考えれば、まあそれほど昔のことではないと言っていいでしょう。……で、風邪についてなんですが、実は『風邪』という特定の病気はないんですよ。風邪を引き起こすウイルスはあるんですが」 「それは……、いったい、どういうことですか?」政子さんが言いました。 「人の喉や鼻腔内の細胞に感染し、鼻水、くしゃみ、熱や喉の痛みなどを引き起こすウイルスは、複数種類存在するんです。それらの症状が発生した状態を『風邪』と言っているだけで、特定のウイルスに感染してる状態を『風邪』と言ってるのではないんです。つまり、こんなことを言うと同業者に叱られるかもしれませんが、医者は『風邪の症状が出てるから、風邪』と言ってるにすぎないんですよ。我ながら、いいかげんなもんだと思いますが」 「そういえば、風邪を治す薬を開発できればノーベル賞ものだ、なんて聞いたことがありますね」三田さんが言いました。 「そのとおりです。みなさんぜひ機会があれば、風邪薬の注意書きなどを見ていただきたいんですが、『風邪が治ります』とは書いてないんですね。『風邪の諸症状をやわらげます』みたいな書き方をしているはずです。つまり風邪薬を飲んで、多少は楽になることがあったとしても、薬がウイルスをやっつけるということはないんですよ。まあ市販の風邪薬には人体に必要な栄養成分が含まれてますので、飲んだほうがいいことは間違いないんですが。つまり、風邪を引き起こすウイルスは複数あるのに、それらをまとめてやっつける薬なんて、まず開発できるわけないですよね。三田さんがおっしゃった、風邪薬は開発できないというのは、そういう意味もあるんです」  そこまで言うと、清水さんは「失礼」と言いながら足元に置いていたペットボトルを持ち上げて、軽く水を飲んでから、続きを話し始めました。 「で、これまでにもその風邪を引き起こしてきたウイルスのひとつが、コロナウイルスなんですよ」 「えっ、コロナウイルスって、新型のウイルスじゃないんですか?」ミコちゃんが驚いたような声で言いました。 「いいえ。コロナウイルス自体は、昔から世界中どこにでもある、有りふれたものなんですよ。確認する術はないですが、きっと、この会場のなかにもウイルスが少しはいるんじゃないでしょうかね」  清水さんはそう言って客席のほうを見渡すふりをしました。 「じゃあ、今騒ぎになってる新型ウイルスと、風邪のウイルスは同じってことなんですか?」政子さんが訊きました。 「ウイルスっていうのは、その特質から、爆発的なスピードで進化していくものなんです。その進化の方向が、感染される主体にとって、より害を及ぼすものになるか、より軽いものになるかは、わかりませんが。とにかく、ウイルスというのは変化し続けていくものだと考えてもらって、間違いはありません。……で、その従来型のウイルスが、中国のとある地域で、従来とは違う形で進化た、ということなんでしょう。従来型のコロナウイルスと、新型コロナウイルスにどれほどの違いがあるのかは、今後の研究を待つしかありませんが」  そこで、それまで黙っていたマークがマイクを手に取りました。 「ということは、新型ウイルスっていうのは、風邪のひどいバージョンっていうことで、いいんですか?」 「うーん……。ウイルスによる感染症というのは、感染力と毒性というふたつの側面があります。たとえば、エイズウイルスのように、感染力は非常に弱くて、感染する可能性はほとんどないけれど、人体にとってひどく害をもたらすものもあれば、感染力は強くても、まったく毒性を持たないウイルスも山ほどあるんですよ。もちろん、感染力が強くて毒性が強いという、とんでもないウイルスもあります。エボラウイルスなんかは、それに該当するでしょう。……で、今回の新型ウイルスですが、中国のデータを見る限りでは、感染力はひどく強いけれど、それほど毒性は強くないんじゃないかと私は思っています。無症状や軽症の人が多くいて、亡くなった方は七十代や八十代の高齢者や、既往症を持っている方にほぼ限られていますので(※註)。だから、先ほど古町マークさんがおっしゃったように、『風邪のひどいバージョン』というので、まあおおむね正しいかと思います。でも、皆様にご注意いただきたいのですが、風邪と言っても、決して侮ってはならない、ということです。『風邪は万病のもと』という諺があるとおり、高齢者の方や、睡眠不足や栄養不足で身体が疲れている場合は、従来型のコロナウイルスでも、感染した場合は重篤化します」 「じゃ、マスクして、普通の風邪と同じように扱えばいいんですか?」すずさんが言いました。 「これから先はどうなるかはわかりませんが、今のところはそこまで神経質になる必要はないと、私は思ってます。本日お越しの皆さんも、マスクをちゃんと着けていらっしゃいますが、県内で感染者が出たわけではありませんし、そもそもマスクにウイルス感染の予防効果があるかどうかは、まだはっきりしていませんから」 「えっ、マスクって、意味ないんですか?」また、すずさんが言いました。 「いえ、『意味がない』というわけではないです。感染した人が、感染を広めないためにマスクをするというのは、効果があります。つまり、人にうつさないためには、役に立つんです。しかし、うつされるを防ぐのに、どれほどの効果があるかというのは、まだはっきりしないんですよ(※註)。まあ、ないよりはマシではあるかもしれませんが」 ※註 マスクの効果、新型コロナの年代別死亡割合については本作最後のページの「あとがき及び引用・参考文献」をご参照ください。
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