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十三
会場が少しのあいだ沈黙しました。そのとき僕は、「それでは日本国民全員が餓鬼のようにマスクを求めて小売業をさまよってたあの現象は、いったい何だったんだろう」と思っていましたが、おそらくライブハウスのなかの誰もが僕と同じことを考えていたと思います。
「……あ、マスクはそうなんですが、一方で推奨されている手洗いは、感染症予防には非常に有効ですよ。ゼンメルワイスという不遇の医者が発見したんですが、手洗いはすべての感染症予防の基本と言っても過言ではないです」
政子さんが小さく咳払いをしてから、清水さんに質問を重ねます。
「ワイドショーに出てる専門家の医者は、このウイルスはとんでもなく強力で、感染したら致死率が高いみたいなことを言う人が多いみたいで……、清水先生のおっしゃることと、少し違ってるように聞こえます。ということは、テレビの専門家というのは、ウソを言ってるということでしょうか」
清水さんは苦笑しました。
「わたしはワイドショーはほとんど見ないし、ニュースも新聞とネット記事くらいしか読まないんで、どんな報道がされてるかはあんまり知らないんですが……、致死率については、あまり高くないと私は判断しています。今言われている致死率とは、発症者のうちで亡くなった人を指しているはずです。無症状の感染者が多いですから、それらも含めると今言われている致死率よりもはるかに低いはずです。……でも皆さん、考えてみてください。感染症の専門家に『感染を防ぐために、あらゆる努力をするべきか?』と尋ねたら、イエスと答えるに決まってますよ。専門家というのは、専門以外のことは何にもわかってないんですから。床屋に行って、『散髪したほうがいいですか?』と訊くようなもんです」
その例えがおかしかったのか、客席からにわかに笑い声が聞こえてきました。
「じゃあ、先生は今回の新型ウイルスに対しては、どんなことに注意して日々過ごしたらいいとお考えですか?」政子さんが訊きました。
「特に、何もする必要はないと思いますよ」あっさりと清水さんは言いました。
会場がざわめきます。
「何も?」
「ええ。高齢者の方や、肺や気管支に持病があったり過去に大きな病気をしたことある人は注意するべきでしょうけど、それは今回の新型ウイルスに限らないことですよね。リスクの高い人は、普段から努めて自衛するべきです。それ以外の方は、特に気を付けるべきことはないと思います」
さらに会場がざわめきました。
すでに書いたとおり、僕自身も新型ウイルスをそれほど強い脅威とは感じてはいなかったのですが、まさか医者である清水さんまでが「何もする必要はない」とまで言い切るとは思っていませんでした。
「先生の病院に、『コロナに罹ったかもしれないから検査してくれ』なんていう患者さんは来ますか?」政子さんが訊きました。
「今日もいましたよ、そういう患者さん。愁訴は、頭痛がするとか呼吸が苦しいとか言って、『新型ウイルスに感染したに違いないから、検査してくれ』って言ってくるんです。で、とりあえず熱を計ってみたら、36.2度の平熱でした」
ここで、会場が笑いで沸き立ちました。僕もさすがに笑ってしまいました。
「まあ患者さんも、たくさん報道が出てくると心配になってくるんでしょうね。仕方のないことだとは思いますが、気にしすぎると日常生活に支障が出てきますから」
「ということは、この新型ウイルスは日本国内で大流行するということはないと考えてもいいんでしょうか?」三田さんが言いました。
「いえ、そんなことはないです。検査で陽性になった人は、このごろ毎日数名人ずつ確認されているようですが、すでにそれ以上の数の人が感染しているはずです。いずれ毎日数百人、あるいは数千人の感染者が出るようになって、国内でも大流行すると思いますよ。もちろん、少なくない死者が出てくることでしょう」
政子さんが少し大げさなくらいの驚いた表情をしました。
「それって、さっきおっしゃってたことと矛盾してませんか? 清水さんは、この新型ウイルスには何もしなくていいっておっしゃってたような……。感染者が増えてから気を付け始めたのでいいってことですか?」
「いえ、そういうことではありません。感染者が増えようが、増えまいが、何もしない……、というか正確には何もできないというのが、正直なところです」
いったい、何もできないとはどういうことなのだろうか。僕も不思議に思いました。
清水さんは、再度「あくまで僕の考えです。すべての医者が同じ考えを持っているわけではないです」と強調してから、次のような問いを発しました。
「みなさん、二〇〇九年に世界的に流行した、新型インフルエンザのことは覚えておいででしょうか。一般には『豚インフル』なんて言われていましたが」
「あ、わたし知ってます」ミコちゃんが胸元で小さく挙手をして言いました。
「アメリカでも流行ってましたね。かなり報道されていました」マークがそう言います。
「そういえば、有りましたね。そういうの。あのとき、ちょうど舞台の主役があったんですけど、中止になるかどうか、ずいぶんやきもきしたの覚えてます」と、政子さん。
僕もその『豚インフル』に関しては記憶がありました。まだ小学生だったんですが、四月の新学期が始まったころから学校でやたらとインフルエンザに関する注意事項を繰り返し告げられ、手洗いとうがいの練習というのを放課後に残ってやらさられました。
その年の四月の下旬になると、親から外に出かけるときはマスクをするように要求されました。思い出すと、あのときの状況は今に近いものだ、というような気がしました。
「豚インフルエンザのウイルス、その後どうなったか、みなさんご存知ですか?」清水さんが言いました。
「どうなったって……、ぜんぶやっつけちゃったんじゃないんですか?」ミコちゃんが言いました。
「そうお思いになってる方が、おそらく大半だと思います。でも、あのウイルスは全然なくなってないんです。今もたぶん、たくさん生き残ってると思いますよ」
「あのとき流行ったウイルスは、まだ収束してないってことですか?」と、マーク。
「そのとおりです。まあ、先ほど言ったように、ウイルスっていうのは変異しやすいので、弱毒化してるかもしれませんけど。要するに私が言いたいのは、ウイルスというのは撲滅するのは不可能である、ということなんです。今回の新型ウイルスも、まだ具体的にどんなものかはっきりはしていませんが、おそらく日本国内にすでにだいぶ入ってきているだろうし、いったん入ったてきた以上はゼロにすることはできないんです」
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