十四

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十四

 会場がさらに、水を打ったかのように静かになりました。 「ということは、諦めるしかないんですか?」政子さんが言いました。 「諦める、という表現が適切かどうかは微妙ですが、数多くある病原体となるウイルスのうち、人類が克服することができたウイルスは、天然痘ウイルスのただひとつです。天然痘はまあ、わたしも患者をじかに診たことはありませんが、発症した場合には症状がわかりやすいために克服できたんだと思います。でも、人類の文明発祥以来、数千年以上の時間を要して、やっと一種類のウイルスを撲滅することができたのみなんです。コロナウイルスやインフルエンザウイルスみたいな、種類も多いし数も多い、しかも場合によっては感染しても無症状になるようなウイルスは、永久に消滅することはないでしょう。人類は結局、ウイルスと共存していくしかないんですよ」 「でも、ワクチンとか薬とか、あるじゃないですか? それでもウイルスには勝てないんですか?」三田さんが言いました。 「すみません。失礼ながら、それがまさにウイルスには勝てないという証拠物件なんですよ。インフルエンザは、ワクチンもあるし薬もある、しかし未だに撲滅できないんです」 「なるほど」三田さんは肯きました。 「さいわい、今回の新型ウイルスはそれほど毒性は強くないようですから大した問題ではありませんけど、仮に毒性が強かったとしても、繰り返しますが、我々には為す術がないんですよ。仮に、すべての人間が家にこもって他人との接触を完全に絶つという極端なことをしたとしても、人獣共通のウイルスは動物の群れのなかで生き続けることになるため、撲滅することはできません。ウイルスが死ぬときとは、すなわち地球上から生物が絶命したときのみです」 「ということは、今の新型ウイルスの流行は永久に終わらないということですか?」政子さんが尋ねます。 「えっと……、『ウイルスの収束』というのをどのように定義するかにもよるんですが、集団のうち、多くの人が感染済みになって、体内にウイルスに対する抗体ができれば、ゼロにはならなくても、新規に感染する人は非常に少なくなります。これを専門用語では『集団免疫』というんですが、厳密な数理モデルを使ってシミュレーションするため、医学と理論物理学を組み合わせたような分野ですね。ちょっと難しい話になりますが、感染症の患者がいて、その患者が平均して何人に感染させるか、という基本再生数という数字を仮定した上で数式を組み立てて予想をするんです。今回の新型ウイルスの基本再生数がいくつになるかは、まだはっきりとはわかってませんが、その数値が最悪だった場合、集団免疫が成立するのは、日本人のうちの六割が感染済みになれば、おそらく新規に感染する人は問題ないくらいに少なくなるだろう、と予想されているようですね、今のところ」 「六割……? 先生のおっしゃってることを違う言い方をすれば、日本人一億二千万人のうちの六割、つまり七千二百万人もの人が感染しないと、この新型ウイルスは収束しないんですか? このステージの上にはわたしも含めて七名の方がいますが、そのうちの約四人は遅かれ早かれいずれは感染すると」 「あくまでも最悪の場合という想定ですが、その通りですね。昔流行ったスペイン風邪というのは、そうしてたくさんの人が感染済みになって収束しました」 「そんなに感染者が出ても……、大丈夫なんですか?」 「もちろん、重症化する人も出てきます。亡くなる方もいらっしゃるでしょう。でも繰り返しますが、たくさんの感染者が出ることで社会に重大な問題が発生するとしても、為す術はないんですよ。心配するだけ損でしょう」 「数字はともかく、たくさんの人が抗体を持つようにならないと収束しないというなら、政府の自粛要請というのは、いったい何のためにやってるんでしょう?」と、三田さん。 「さあ。それは私に聞かれても……。公務員でいらっしゃる三田さんにこういうことを申し上げるのはたいへん失礼ですが、役所はとにかく、何かをやってるふりをしたいだけなんじゃないですかね。何にもしてないように見えると、市民から苦情が来るから」  それを聞くと、三田さんは顔にしわを作って苦笑しました。 「先生、どうもありがとうございました。新型ウイルスについて、よくかわりました」政子さんが言いました。「そろそろ怪談会の本番に入ろうと思いますが、ほかに清水先生に訊いてみたいことがある方はいらっしゃいませんか?」  ステージ上の怪談師も客席からも誰も挙手をする人が現れそうになかったので、少し気後れしましたが、この際清水さんに質問することにしました。  僕が手を挙げると、政子さんが僕を指名しました。僕はマイクを持ちます。 「新型のウイルスについて、よくわかりました。ありがとうございました。人間ができる対策としてあまり有効なものはないというのはわかりましたが、今回のウイルスに特化した薬などは開発は見込めないのでしょうか?」  清水さんはマイクを手に取って答えます。 「答えるのが難しい質問です。一般論として話しますが、医薬品というのは、三段階の臨床試験を経てようやく、医薬品として使えるという手順を踏むことになっています。なんで三段階もの試験が必要かと言えば、薬害事件を避けるためなんですね。サリドマイドやスモンという薬害がかつてあったことは、ご存知の方も多いかと思います。薬というのは必ず副反応、つまり人体にとって毒になる要素を含んでいるんですね。で、製薬会社が医薬品のもととなる化合物を発見してから、三段階の治験が終わって上市されるまで、どんなに早くても五年は要します。ものによっては二十年以上かかるものもあります。薬というのは、それぐらい慎重に実験を重ねてからじゃないと、安心して使えるものにならないんですね。で、新型ウイルスに対する抗ウイルス薬の開発ですが、未来のことなので絶対にないとは言えませんが、少なくとも、今後二年や三年で決め手となるような抗ウイルス薬が出てくる可能性は、ほぼゼロでしょう。仮に開発されても、その時にはもう、先ほど説明した集団免疫が成立していることでしょうから、無駄とは言いませんが、感染の爆発的な広がりを防ぐのにその薬が役に立つということは、おそらく見込めないと思います」  まさか薬の開発にそんなに時間を要するとは思っていなかったので、僕は少し大げさなほど驚いた表情をしてから、 「ありがとうございました」と清水さんに言いました。  清水さんの話をまとめると、こういうことになります。  今世界的に猛威を振るっているらしい新型コロナウイルスというのは、感染力は強いがそれほど毒性が強いわけではない。一度国内に入ってきた以上、ウイルスを撲滅することは不可能。集団のなかの一定数が感染して抗体を持つようになるまでは、感染は続くことになる。マスクは有効かどうかはわからない。手洗いは感染症予防に有効。不要不急のイベント自粛には効果はない。薬の開発は間に合わない。  そして一番大事なことは、人間が新型ウイルスに対してできることはほとんど何もないが、それほど凶悪なものではないため、そもそも何もする必要がない、こうなります。  正直に言って、にわかには信じられないような内容でした。しかし、清水さんの言うことはいちいちもっともで、正しいようにも思います。  とすると、我々はいったい何を怖がってるのでしょうか。これまでにない、未知のものであることが恐怖を引き立てているのでしょうか。そして、怖れたところで、何か有益な未来が開けることがあるのでしょうか。 「ほかに質問がなければ、怪談会本番を始めたいと思いますが、よろしいですか?」政子さんがそう言いました。  質問がなかったので、ようやく怪談師としての仕事が始まります。
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