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十九
その後、しばらく時間が経過して、そろそろ打ち上げもお開きになろうかというころ、ステージに通じる防音扉が開くと、ライブハウスの女性スタッフの久保さんがマスクをした姿で現れて、医師の清水さんのほうへ歩み寄りました。
そして、鬼のような怒りの形相で清水さんのカッターシャツの襟もとを両手でつかむと、
「アンタ、無責任なこと言わないでよ!」と叫ぶように言いました。
いったい何事か、僕は理解できずただ茫然としていたのですが、久保さんはひどく興奮していて、さらに清水さんに何やら怒鳴るように言い続けています。
マークが久保さんを背後から羽交い絞めにするようにして、清水さんから引きはがしました。
「止めなさい! いったい何をしてるのよ!」政子さんが久保さんに言いました。
そして、すみません、と清水さんに頭を下げます。
久保さんはかまわず、清水さんに「人殺し」とか「無責任のヤブ医者」などと言っています。
清水さんは表情をほとんど変えずに、
「えっと、あなたはスタッフの久保さんでしたね? 話はちゃんと伺いますから、とにかく落ち着いてください。私が何か、失礼なことをしましたか?」と久保さんに言いました。
久保さんが激しく振り回していた両手の動きを止めたので、マークが羽交い絞めを解きました。久保さんは激しく呼吸をしています。
「あなた、医者のくせに新型ウイルスが大したことないなんて、言ってたでしょう。そんなこと言ってもいいと思ってるの!?」ようやく少しだけ落ち着いた久保さんが発した言葉が、それでした。
ライブハウスの入口と観客席のあいだには、分厚い防音扉があって、本来、公演中はその扉を閉じているのですが、怪談会は楽器演奏するライブとは違ってそれほど大きな音を出さないため、換気のために防音扉は解放していました。そのことによって、表で当日券販売とチケット確認をしていた久保さんのところまで、ステージ上で話していた内容が聞こえていたようです。
とにかく久保さんは、怪談会の冒頭に清水医師が説明した新型ウイルスについての内容が気に入らなかったようで、この暴挙に出たようです。
「このウイルスは、人を殺すのよ。日本人が一致団結してウイルスと戦わないといけないのに、あなたみたいなインチキのヤブ医者が『このウイルスに対して何もする必要がない』なんて言って、それを聞いた人が信じたらどうするのよ。無責任でしょう。あなたのせいで、防げるはずの感染が広まって、たくさん人が死んだら、責任取れるの!」
僕は、怪談会が始まる前に政子さんと久保さんのやりとりを聞いていたので、久保さんが過剰と言っていいまでに新型ウイルスを怖れていることは察しがついていました。しかしまさか、こうしてプロである清水さんに突っかかるほどとは思っていませんでした。
仮に、この新型ウイルスが本当にとんでもなく毒性が強く、そして清水さんがそれを軽く扱って人々に嘘を広めているというなら、久保さんの怒りはごもっともだと思います。一方プロである清水さんは、ステージ上で話していたとおり、それほど強いものではないと判断しています。
この認識の差が、このような行動につながったのです。
「落ち着いてください。私は『何もする必要はない』と申し上げたつもりはありません。『何をしてもウイルスに勝つことはできない』ということを言ったはずです」清水さんが言いました。
「同じことじゃない! そのインチキを信じて、何もしない人が出てきたら、感染を広めることになるでしょう!」
清水さんはそれまでのポーカーフェイスを崩し、ほとほと困り果てたというような表情になっていました。
「じゃあ、あなたはこのウイルスに対して、どうすればいいと思ってらっしゃるんですか?」
「決まってるでしょ。みんなで協力して、ちゃんとマスクや手洗いをして、アルコール消毒をして、不要不急の外出は避けて、一刻も早くウイルスをやっつけるために努力するべきよ。こんなゴミみたいな怪談会なんて、やる必要ないわ」
政子さんが、いいかげんにしなさい、と叫びました。
かまわず久保さんは続けます。
「今が大事なときなのよ。ウイルスを早くやっつけられるか、感染が爆発するかの瀬戸際なのよ。ここにいる人たち、みんな無責任よ。あなたたち、自分がどんなに悪いことしてるか、自覚がないの!?」
清水さんが眉間にしわを寄せ、
「なぜそんなに、このウイルスを特別視するんです?」と言いました。
「特別に決まってるでしょ。たくさんの人が死ぬんだから」
「なぜ、たくさんの人が死ぬと思うんです? 国内ではまだクルーズ船を除いて死者は十名も出ていないはずですが」
「だって、危険なウイルスだって、テレビで言ってる」
それを聞いて、清水さんは少し嘲笑するように顔をゆがめました。
僕もさすがに「テレビで言ってる」というセリフは、あまりに馬鹿馬鹿しくて短絡的だと思いました。
「テレビが言ってることが正しいかどうかはまあ置いといて、仮にあなたが言うとおり、この新型ウイルスが危険なものだとしましょうか。感染が蔓延したら、国内でたくさん人が死ぬ、と。そして、さらにあなたが言うとおり、いま日本国民が努力すれば、このウイルスを防げるとしましょうか。ひとつ質問です。久保さん、あなたは去年から今年の冬のシーズンで、インフルエンザで何人の方が亡くなったか、ご存知ですか?」
久保さんはそれを聞くと、それまでの怒りの表情が少し和らいで、困惑したような顔つきになりました。そして、清水さんの問いには答えませんでした。
「答えは、この冬だけで一千万人がインフルエンザに感染して、約一万人の方が亡くなってます。世界で、ではないです。日本国内だけです。久保さん、あなたがまだほとんど人が亡くなってない、亡くなるのはほぼお年寄りばかりの新型ウイルスをそんなにまで警戒して、すでにたくさんの人が亡くなっているインフルエンザを怖がらない理由は、なんですか?」
久保さんは何も答えられず、泣きそうな表情になっています。
「次の質問です。毎年、お風呂に入るときに、急激に血圧や心拍が変動して心臓にダメージを受けて亡くなったり、浴室での転倒が原因で亡くなる人がいますが、あなたのはその数をご存知ですか? ……と言っても、ご存知ないでしょう。答えは、約二万人です。あなたがお風呂を怖がらない理由は、どういうものですか?」
理詰めでものを言う清水さんに圧倒されて、楽屋の中はほかに誰もしゃべらなくなりました。すべての人の視線が、久保さんに向けられています。
清水さんはさらに続けました。
「毎年、一月だけで餅をのどに詰まらせて亡くなる方が千人以上いらっしゃいます。餅は販売を禁止するべきですか? お正月にお雑煮を食べる習慣は、不要不急な行為として法で禁止すべきでしょうか。……新型のウイルスを怖がる気持ちはわかります。しかし、我々は生きていく上で、大なり小なりリスクを負いながら日々をすごさなければいけないんですよ。特定のウイルスだけを狙ってリスクをゼロにするなんてできるわけはないし、目指すべきでもありません。あなたは先ほど私に向かって、『たくさん人が死んだら、責任取れるのか』みたいなことをおっしゃいました。あなたの言う通り、イベントも観光も外食もやめて、それでウイルスが防げるとは私は思いませんが、仮に防ぐことができたとして、そこで働く人が職を失って自殺でもした場合は、あなたは責任取るんですか?」
久保さんはとうとう、その場に座り込んで、子供のように声を上げて泣き始めました。
ミコちゃんが久保さんのもとに近寄って、背中に手を当てました。
「先生、ちょっと言いすぎですよ」とミコちゃんが困惑したような顔で言います。
清水さんは、すみません、と小さく言いました。
政子さんが、
「あなた、客席の片づけは終わったの? 終わったならさっさと帰りなさい」と久保さんに言いました。
久保さんは立ち上がり、手で顔を覆ったまま楽屋から出ていきました。
「うちのスタッフが、失礼なことを言って申し訳ございません」政子さんが清水さんに言いました。
清水さんは特に気にしているようでもなく、
「いえ、別にかまいませんよ。医者をやってると、半年に一回くらいは言われるもんですからね、『ヤブ医者』って。私は単なる内科医ですけど、たぶん日本一の名医でもしょっちゅう言われてるんじゃないですかね」と苦笑しながら言いいました。
久保さんがわめいて楽屋の雰囲気が悪くなったため、その日の打ち上げはそれで終わることになりました。間もなく午後十時三十分になるという時刻でした。
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