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二十
話は少し変わりますが、二〇二〇年の二月から四月あたりに僕のバイト先で発生した、いくつかの出来事を書いておきたいと思います。
僕は月曜日、水曜日、土曜日の週三回だけ、大学から二キロほど離れたオフィス街のど真ん中にあるコンビニでアルバイトをしていました。月曜と火曜は午後六時から午前零時までの六時間、土曜は正午から午後六時までのシフトになっています。
二月上旬の水曜日、たしか怪談会の三週前の水曜日だったかと思いますが、夕方出勤すると、コンビニのフランチャイズ加盟店オーナー兼店長(つまり僕の雇い主)が、ユニフォームに着替えた僕に不織布マスクを差し出してきて、
「今日からはこれを着けて接客をするように」と言われました。
世間ではマスク不足の真っ最中でしたが、どうやらコンビニ本部がどこからか調達してきて、各店舗に配布したようです。
「べつにかまいませんけど、いいんですか?」と僕は店長に訊きました。
僕は仕事中にマスクをしたくない、あるいは反対にぜひマスクをして仕事をしたいという気持ちはありませんでした。多少息苦しくなるので、できればナシのほうがいいかな、という程度の気持ちです。
コンビニでは、基本的に接客をするときはマスクをしない、やむを得ない理由があるときは店長の許可を得て装着するように、というルールになっていました。それが一転して、仕事中にマスクをすることが義務付けられるようになったのです。
「全国で、苦情を言ってくる客が山ほどいるらしいんだよ。『新型ウイルスが流行ってるのに、なぜ店員はマスクをしないのか』みたいなクレームが」店長が苦虫をかみつぶしたようなような顔で言いました。
また同時に、
「でも、一週間にひとり当たり一枚しかないから、それを来週まで使うように」とも言われました。
僕は週三日の勤務なので、一枚のマスクを三回使うということになりますが、朝八時から出勤して夕方まで働く人のなかには週五で勤務している人もいます。すでに書きましたが、何度も同じマスクを使うようでは却って不衛生ではないかと思い、僕は遠慮がちに店長にそれを指摘したのですが、
「仕方ないよ。マスク一枚で余計なクレームに関わらずにすむなら、そっちのほうが楽だと本部が判断したんだろう」そんなことを言いました。
で、その日僕はきちんと言われるままにマスクを装着して接客したんですが、薄い布一枚と言えども、レジ打ち時の発声はかなり妨げられることになります。
具体的に言うと、「864円のお買い上げになります」と僕がお買い上げ金額を読み上げた場合、「はっぴゃくろくじゅうよえん」か「はっぴゃくろくじゅうごえん」か、聞き分けるのが難しくなるのです。
その一日だけでも、お買い上げ金額を何度も聞き直されるということが、特に年配のお客様が相手に、何度も発生しました。
そしてとうとう、五十代くらいの中年男性でしたが、僕の発声がうまく聞き取れないかったお客様が、
「お前ら、なんでマスクなんかしてるんだよ。お客様相手に失礼だとは思わないのかよ。取れよ。取らないなら本部にクレーム入れるぞ」と凄んできました。
この時期はマスクをしてもしなくても文句を言う客がいたのです。
面倒なので、僕は丁寧に頭を下げ、マスクを外してからもう一度お買い上げ金額を告げました。
多少時系列は前後しますが、その後、二〇二〇年四月七日に日本政府から新型コロナウイルスに関する緊急事態が発令された後は、マスクをしていることに対するクレームは一気に減り、マスクをしてない店員が一人でもいれば、「○○店の△△という名前の店員がマスクをしていなかった」というクレームが、何十件、あるいは何百件も寄せられるようになりました。
三月中旬には、コンビニに限らずすべての接客業のレジカウンターの客と店員のあいだに、透明のシートが天井から吊るされるようになりました。
この透明シートは店員の立場からすると、迷惑この上ない存在でした。店員も客もマスクをしており、しかも透明シートを隔てれば、互いに何を言っているのか非常に聞こえにくくなるのです。
客がレジでタバコを注文しても、どの銘柄か(あるいは何番か)がさっぱりわからないのです。結果、何度も聞き返すことになり、そのことに怒りを感じて店頭で怒鳴る客が一日に何人もいました。
またこのころになると、釣銭を手渡しではなくトレイに置いて客に渡すようにと指導されました。効果のほどはわかりませんが、手に直接触れることを避けて、感染を防ぐという目的のようでした。
それまで何気なくやってた釣銭を渡すという作業を、いきなり違う形に変更されたのでなかなか慣れなかったのですが、そうして釣銭を返していると、中には、
「お客様を汚いもの扱いするのか!」と激昂する人が、週に数名いました。
新型ウイルスは、人々の怒りスイッチを押してしまう、あるいはスイッチの入るきっかけを変更してしまったのです。とにかく、二〇二〇年の春以降、コンビニで受けるクレームは段違いに多くなりました。おそらく、ほかの小売店でも同じことが起こっていたと思います。
また、ほかの影響もありました。
会社勤めをしている人は可能であれば在宅ワークを進めるようにという政府から推奨があってから、オフィス街にある僕のバイト先は、目に見えるほど来客が減ったのです。
夕方からのシフトでは、仕事帰りに夕食用のお弁当やビールなどを買う客が訪れ、僕の勤務開始時間である午後六時あたりから二時間ほどは、絶えず来客がありレジに列ができることもあるほどなのですが、三月半ばくらいから客数は徐々に減り始め四月にはとうとう前年同月比で三割も減ったのです。
土曜日のシフトでは、僕と店長のふたりで勤務することになっていたのですが、店長は、
「このままじゃ、店やっていけなくなるかもなぁ」というようなぼやきを、頻繁にするようになりました。
午後三時四十分に入荷する弁当及びサンドイッチ類のケースの数は、賞味期限切れの廃棄を少しでも減らすようにと、客数減以上の割合で発注を減らすようになったようで、新型ウイルスのことが報道される前に比べて半分近くまで減っていました。
僕としては作業が減って仕事が楽になったので、個人的には問題なかったのですが、社会全体としては経済活動が一部凍結して損失になっているのは間違いないようでした。
特に土曜日の昼間のオフィス街は、休日出勤する人は絶滅状態でほぼ完全に人通りはなくなっていて、四角い無機物でしかないビルばかりを眺めていると、このまま世界は終わるのではないかと思ってしまうくらいでした。
コンビニのスタッフのなかでも、やはり新型ウイルスに対する恐怖にはずいぶんと個人差があるようでした。仕事中にマスクはするがほかの予防策は取らないという僕みたいな人もいれば、レジを一回打つたびに手をアルコール消毒するような人もいました。
合計六人いる午前零時から朝六時まで働く夜勤のスタッフのうちのふたりは、とある有名人が新型ウイルスで亡くなった数日後に、「感染が怖いから」という理由で仕事を辞めました。
すぐに後任のスタッフが見つかるわけもなく、店長は四月半ばから夜勤にも入らないといけなくなりましたが、「売り上げが落ちた分、人件費を減らさなきゃいけなかったから時給が高い夜勤が辞めてくれたのはちょうどよかった」などと言っていました。しかし、浮いたぶんの人件費では減った売り上げを賄うにはとうてい足りなかったようです。
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