25人が本棚に入れています
本棚に追加
二十四
それまで沈黙していたマークが口を開きました。
「でもまあ、ああやって県外ナンバーに因縁付けるくらいだと、まだマシなのかもしれませんね。アメリカでは……、アメリカに限らずヨーロッパでも似たようなことが起こってるらしいんですが、今年の二月あたりから、ウイルスの発祥が中国だということで、中国人は差別されているらしいですよ。まるっきり病原体扱いだって。道を歩いてても、中国人でなくてもアジア人の外見だと、いきなり汚い言葉を投げつけられたり、ひどいのになると殴られたりするというニュースが、多くなってます」
そのニュースは僕も見たことがありました。人権先進国であるはずの欧米で、ウイルスの蔓延に何の責任も負っていない人々が、アジア人というだけの理由で非難されている、と。
マークはさらに続けます。
「僕の妹は今アメリカの大学に通ってるんですが、キャンパスのなかですれ違いざまに『ヘイ、コヴィッド』なんて毎日いわれてるみたいです。つい最近まで仲が良かったリベラルな白人の友達からも、『汚いアジア人は国に帰れ』なんて言われたそうです。『違いを認め合おう』とか『多様性が大事だ』みたいなスローガンは何だったんだと、妹はかなりショックを受けたようです」
マークはアメリカ国籍ですが、見た目は完全に黄色人種のアジア人です。
「来年の夏で妹は卒業になるんですけど、こんな意味のわからない迫害を受けるなら、家族みんなで日本か韓国に移住しようか、なんて話もしているんです。まあ日本でもさっきみたいな連中がいますが、人種差別よりはマシでしょうからね」
インフォデミックは、新型ウイルスなど比べ物にならないほどのスピードで世界中に蔓延し、そしてのその毒性は、ウイルスなどのよりはるかに強いようです。
清水さんが軽く顔をゆがめて、
「たぶんこれから、もっとおかしなことが頻発しますよ。私もひさしぶりにテレビをじっくり見てみたんですが、ひどいもんですね。朝から晩までウイルスばっかり、ワイドショーがあの報道を続ける限り、インフォデミックは止まないでしょうね。下手したら、新型ウイルスの死者よりも、インフォデミックの死者のほうが上回るんじゃないでしょうかね」
「そんな、まさか」と僕は言いました。
「まあ、最悪の場合は、ということですけどね。平成大不況のころ、年間自殺者は今より一万人以上多かったんですが、このままウイルス対策と称して自粛とやらを続ければ、あのころなんか比較にならないくらいの不況になるでしょうね。本当に愚かなことです」
「うちも、このまんまハコを借りてくれる人がいなくなってイベントが入らなくなると、わたしも首くくらなけりゃいけなくなるかもね」政子さんがハンドルを操作しながら、冗談めかして言いました。
僕はそれを聞いていて、はたしてすずさんの職場は客がどれくらい減ってるのかどうか聞いてみたかったのですが、職種柄なかなか気軽に聞けるようなものではないため、言葉を飲み込みました。コンビニなんかと比べ物にならないくらい大幅に減っているのは間違いないだろうと、想像しました。
「そういえば、この前有名なスポーツ選手が感染したときのことをテレビで話していたでしょう?」清水さんが言いました。
僕もその放送はちらっと見た記憶があります。
「あの選手が、新型ウイルスに感染したときの症状として、『においや味がまったくしなくなる』みたいなことを言ってましたけど、やはりその翌日から、うちの診療所に『においがまったくしなくなったから、新型ウイルスに感染したかもしれない』なんて言ってくる患者さんが複数来たんですよ。ふつうの風邪でも嗅覚味覚は多少鈍感になるものですけど、何か新しい報道あるたびにこうやって来られたんじゃ、こっちも参ってしまいますよ。新型ウイルスの検査は保健所経由で為されるから、うちに来られても困るんですが」
「でも、清水先生のところはちゃんとお客さん……というか患者さんが来てるから、まだいいじゃないですか。うちなんか本当に、今月の収入は九割以上減る見込みですし」
「いえ、そうでもないんですよ。おかしな話とお感じになるかもしれまんせんが、感染症にいちばん罹りやすい場所は、実は病院なんです。まあ、病院っていうのは必然的に病気の人が集まってくるわけで、そこにはいろんな病原体を持った人がいるんです。今回の新型ウイルスも、イタリアあたりですでにかなり流行していますが、あれほとんど院内感染が原因なんです。だから、うちだけじゃないんでしょうけど、どこの病院も特に内科は今年の二月あたりから患者が急激に減ってるんです。うちなんかちっぽけな診療所ですけど、それでも親父が開業したときの借金とリースの残高がまだ山ほど残ってて、私も連帯保証人になってますから、まったく他人事じゃないですね。……しかし、本当にバカバカしい話だと思います。病気が流行ったら誰も病院に来なくなって、医者が困窮するなんて」清水さんは真剣な表情でそう言いました。
「先生は、この前に集団免疫というのができれば収束するってことをおしゃってましたけど、それはどれくらいかかる見通しなんですか?」マークが尋ねました。
「最新の研究では、基本再生数が意外に低いということがわかってきたようですから、断定的なことは言えませんけど、意外と早く収束するかもしれませんね。それでも、二年くらいは要するでしょうけど」
「そんなに……。それまでこんな生活、続けられそうにないわ」政子さんが言いました。
「でも、集団免疫成立よりも、この騒ぎが早く終わる可能性はありますね」
「へえ。それは、どんな?」
「人々が新型ウイルスに飽きたとき、です。二〇〇九年の豚インフルのときもニュースに人々が飽きて誰も話題にしなくなったら、ただのインフルエンザということになったんです。ペストとかエボラ出血熱とか致命的なものは別として、結局は人間の気分次第なんですよ。病は気から、なんて言うと、ちょっと意味が違ってきますけどね」
最初のコメントを投稿しよう!