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 マスクに続いて小売店の棚から消えたのは、トイレットペーパーでした。  インターネット上のどこかに「トイレットペーパーの原料となる紙は中国からの輸入品に頼っているため、中国の工場が停止したら日本もトイレットペーパーが不足する」ということが書かれたのが原因らしいのですが、どうやらそれはデマのようでした。  しかしデマであっても、信じる人が一定数いれば、現実に影響を及ぼすのです。 「トイレットペーパー次回入荷未定」という看板も、マスクのものに並んで店頭に掲げられることになりました。おそらくトイレットペーパーの品切れに関連しているのでしょうが、ウエットティッシュなども買い占められていました。  僕は少し前に六ロール入りのものを買ったばかりだったので、一人暮らしの僕には買い占めをする動機は乏しく、実際に買い占めをすることはなかったのですが、「もし使い切るまでに店頭に入荷しなければどうしよう」ということが頭をよぎりました。さいわいなことに、それは杞憂に終わりましたが。   また、どういう理屈かはよくわからないのですが、女性用の生理用品も同時に買い占めが発生して、品薄になっていたようです。  そのころ、とあるSNSで見かけた書き込みのことが、強く僕の印象に残っています。  匿名のその人は、山のように積み上がったトイレットペーパーの写真をSNSにアップして、次のような書き込みが付けられていました。 「トイレットペーパーが無くなる、というのはデマだとわかっている。しかし、そのデマを一定人数が信じれば、その人達が買い占めに走ることになる。とすると、どっちにしろ欲しい人が買えなくなるだろう。だから、デマだと知っていても、とりあえず必要なものは買い占めておくのが合理的なんだよ。オークションで高く売れそうなら転売するよ。ほしい人がいたらDMちょうだい。一個千円で譲るよ」  デマだと知っていても、デマに流されている人がいる限りは、自分もデマに流されるのが合理的。まさにその通りだと僕は思いました。  つまり根も葉もないウワサ話は、落ちる水滴を受けるコップの水がいつかは溢れるように、ある地点を過ぎると急激に人々の行動を変容させ、暴走せしむるのです。  マスクやトイレットペーパーが店頭にないことに激昂し、小売店の店員に暴行をはたらいた人間が逮捕されたというニュースは、毎日のように流れていました。  マスクをした無表情の顔で、トイレットペーパーを求めて街をさまよう人間の姿は、まるでゾンビのようでした。  その間も、国内での感染者数が着実に増えていき、毎日夕方に「本日の感染者数○○人」と報じられるのが日課となりました。  かつてないほどの、カオス。  二〇二〇年の初春を表現するとしたら、それ以外の言葉は僕には見つかりません。
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