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 話は変わりますが、僕には今も付き合っている恋人がいます。彼女の名前を仮に曽我部藍としておきます。  藍は僕よりふたつ年上の二十三歳で、地元の短大卒業後にスポーツジムのインストラクターとして勤務しています。出会ったのは共通の友人(先ほどの僕にライブハウス出場を持ちかけた人と同一人物です)がいて、複数人で遊んだり食事をしたり安い居酒屋に酒を飲みにいったりするうちに、僕と彼女は徐々に距離を縮めていって、付き合うようになりました。  二〇二〇年二月当時で、交際を始めて約半年を過ぎたところでした。  藍は高校生のころにバレーボール部に所属して、全国大会にも出場したことがあるそうです。球技に限らずあらゆるスポーツが得意で、彼女にとってはジムのインストラクターという職業は天職でした。  藍は髪の毛をベリーショートにしていて、身長は百七十センチ以上あり、肩幅もしっかりと左右に広がっているため、後ろ姿だけを見れば男のようにも見えますが、その体格に似合わない童顔で、顔だけみればいまだに十代半ばくらいのように見えます。  一方、僕は正反対に子供のころから運動が苦手でした。いちおう、義理で藍のスポーツジムの会員にはなってはいますが、行くと翌日には必ず全身筋肉痛になり一挙手一投足に不都合を生じるようになってしまうため、幽霊会員になっています。  おそらく、スポーツジムというのは怪談師にとってイメージとしていちばん縁遠い場所ではないでしょうか。なぜそんな正反対の僕たちが恋人どうしになったのかはよく疑問に思われるのですが、互いにあまり気を使わなくて済むのが心地よいのだと思います。  さて、なぜ僕が彼女のことをここに記したかというと、僕と藍とのあいだに、新型ウイルスに対するスタンスに微妙に差があり、おそらく誰もがこの「ウイルスに対する意識の違い」というものを身近な人に対して感じたことがあるのではないか、と思うからです。  政子さんから怪談会を依頼された日の、午後十時過ぎ。  ユーザーアカウントが日本でいちばん多い某SNSアプリを通じて、藍からショートメッセージが届きました。  ”今仕事終わった。家いる? 今からそっち行っていい?”というものでした。  僕はすぐにスマホのディスプレイを指先で押して返事をします。  ”いいよ。晩御飯は?”  ”もう食べた。じゃ今から行く”藍から返事が来ました。  藍は実家に親と一緒に住んでおり、職場のジムには自転車――と言っても二十万円以上もするハンドルの形がぐにゃりと曲がった高級ロードバイクで通っています。ジムから僕が一人暮らしをしているワンルームには、自転車で二十分くらいを要するため、その間に軽く部屋を掃除しました。  やがてインターホンが鳴り、藍がやってきました。  玄関のドアを開けると、右手に自転車の黄色いヘルメットを持ち、リュックを背負った姿で藍が立っていました。そして、その小さい顔の半分を占めるような不織布マスクを装着しています。マスクをしたまま自転車に乗っていたようで、少し呼吸が荒くなって顔の中央で白い不織布が脈を打つように隆起したり沈んだりしています。 「寒かった?」僕がそう訊くと、 「いや、そこまででもなかった」藍は答えました。  部屋に入ると、藍はマスクを外しました。そして大きく息を吸い込みました。  そして、 「あー、苦しかった」と言いました。 「自転車乗るときくらい、マスクはしなくてもいいんじゃない? 屋内ならともかく、外なら平気だろう」  軽い気持ちで僕がそう言うと、藍は首を左右に振って僕を軽く睨むよう視線で僕の目を見てきました。 「ウイルス、どこにいるかわからないんだから。もう日本に入ってきてるのは確実だし、症状が出るまでの潜伏期間が二週間もあるから、油断できないよ」新型ウイルスをあまり警戒しない僕を、責めるような口調でした。 「でも、まだ市内どころか県内でも感染者はいないわけだし」 「そりゃ、どこだって最初は感染者ゼロでしょ。でもそこから、ウイルスが一粒でも入ってきたら、あっという間に広がるんだから」  報道されたのは二月十五日のことでしたが、中部地方の高齢者の感染が確認され、しかも潜伏期間中にスポーツジムに通っており、そこのジム会員が複数感染しているおそれがあるということでした。  そんなことがあったため、中部地方からは遠く離れてはいても、インストラクターである藍は新型ウイルスに強い敵意を持っていたようでした。 「仕事場でも、今日からみんなマスク着用するように言われたのよ」藍は言います。 「マスクしたまま、スポーツの指導してるの?」 「そう」 「ジムの客は?」 「トレーニーのほうは任意だけど、なるべく着用してくださいってお願いはしてる。まあ、あんまりしてる人はいないけどね」  そりゃそうだろう、と僕は思いました。マスクをしたまま運動するなど、正気の沙汰だとは思えません。下手をすれば酸欠で死ぬではないか、と。 「三郎ちゃんは、マスクしてる?」  僕はかなり重度の花粉症持ちで、去年の春に買ったマスクの残りがまだあったため、うちにはちょうど二十枚程度の余裕がありました。しかし、買い占めのせいで店舗で新たに買い求めるのは難しそうだったため、その二十枚を必要最小限で使用することにしていました。 「なんかもうマナーみたいになってるから、コンビニに入るときとかはマスクするようにしてるけど……、さすがに外出しているあいだ、ずっとしてるというわけにはいかない」 「ダメよ、ちゃんとしないと!」藍は子供を叱りつけるように叫びました。  僕は肩をすくめます。 「近くに感染者が出たとかいうならともかく、そんなに警戒しなくても。今の状態だったら、まだインフルエンザに罹る可能性のほうが高いんじゃないかな」 「怖いウイルスなんだからね、インフルエンザなんかと一緒にしちゃダメ。ちゃんと、家を出るときはマスクして。三郎ちゃんのために言ってるんだから」 「でも、毎日マスクをするほど、枚数が残ってないし。一枚のマスクを何日間にも渡って使用していると、不衛生で却ってほかの病気になっちゃんじゃないかな」 「新型コロナに罹るくらいなら、ほかの感染症にかかったほうがマシだよ。三郎ちゃんは考えが甘すぎ。約束して、明日からはちゃんとマスクするって」  まさか、今月末にライブハウスのイベントに出演するなどとは言い出せない雰囲気でした。もしそれを告げたら、藍は全力で反対したことでしょう。二月二十九日は藍はおそらく出勤日なので、バレることはないだろうと僕は判断し、言わないことにしました。  もちろん藍は僕がアマチュアの怪談師として活動していることは知っています。藍はオバケやUFOなどの超常現象にはほとんど関心を示さず、「科学的に有り得ない」というスタンスでした。宗教や死後の世界などもまったく信じてはおらず、「人間は死んだらそれで終わり」というのが彼女の持論でした。  ですので、僕が怪談師として活動することについてあまり賛成してるようではありませんでしたが、”楽しんでやってるんなら別に口出ししない”と、要するに反対もしませんでした。 「明日から出掛けるときはマスクをちゃんとする」という約束をするよう要求されて、おざなりにそれを承諾した後、僕は冷蔵庫から五〇〇ミリリットル缶のビールを二本取り出して藍と飲みました。  そしてその後、僕たちはセックスをしました。  僕は二十一歳で藍は二十三歳。十代後半のころのどうしようもないころに比べたら多少は衰えたものの、僕の性欲はじゅうぶんに強いもので、藍もそれは同じようでした。  新型ウイルスに感染した人と関わりを持った人のことを「濃厚接触者」と呼ぶようですが、その字面だけを眺めると、濃厚接触とはまさにセックスやそれに近い行為のような印象がするのですが、近距離で会話をしたり、交通機関で隣り合ったりしただけで、それに該当するようでした。  ジムのインストラクターをしているだけあって、藍の身体は太ももやウエストに無駄な脂肪は付いておらず、若木のように引き締まっています。バストは少し小振りですが、じゅうぶんにセクシーなスタイルをしており、僕の性欲をがっちり受け取めています。  その日の晩、日付が変わるくらいの時間まで、僕は合計三回射精しました。マスクはろくに着けようとしなかった僕ですが、避妊具はちゃんと装着しました。新型ウイルスによる肺炎よりも、大学生の身で恋人が妊娠すること、あるいは性病のほうを僕は怖れていたのでしょう。 「もしウイルスに感染したら、治るまでセックスもできなくなるんだよ。だから、ちゃんと気を付けてね」事後に藍はそんなことを言いました。
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