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 二月二十九日、午後五時過ぎ。  僕はライブハウス兼小劇場の「ボーンハウス」に行きました。  楽屋直通になっている演者用の裏口のドアはいつものように鍵が開いたままになっていました。  中に入ると誰もおらず四人掛けのソファが四つと、壁に向かって折り畳み式の長机がふたつ並んでおいてあるだけの空間が広がっています。  怪談会は、午後六時半に開場、午後七時から開演となっています。ですので出演者は開場時間の前には楽屋に入ることになっているのですが、さすがに少し早く来すぎたようでした。  楽屋の出入口のすぐ右側は音量や照明を調整するミキサー室になっており、舞台をモニターするためのディスプレイが三つ並んでいます。その手前にはトグルスイッチやレバーがおびただしく並んだ機械があります。  政子さんはこのミキサー室にいることが多いのですが、その日はいませんでした。  僕はソファに座って、誰かが来るのを待つあいだ、スマホをいじってインターネットのニュース記事などを見ていました。  ポータルサイトのトップには、「本日、クルーズ船にて7人を陽性と確認」と大きく表示しています。  そのまま十分ほどスマホをいじっていたのですが、楽屋には誰もやってくる気配がなかったので、僕はソファから立ち上がり、防音の重い扉を開けて、ライブハウスのステージのほうへ行くことにしました。  舞台のそでにある黒いカーテンを泳ぐようにしてかき分けながら、ステージに近づくにつれて、政子さんの声が遠くに聞こえてきました。 「そんなこと言ったって、今さら中止できるわけないでしょう。前売りのチケットはもう販売してるんだから」政子さんがステージ向こうの暗い客席で言っていました。  相手は、ライブハウスのスタッフの久保さんという二十代の女性です。久保さんはいつも派手なショートカットの金髪をしており、いかにもライブハウスのスタッフという外見をしていました。  僕もこれまで何度かこのライブハウスに出演したことあるので、久保さんとは面識あるものの、言葉を交わしたことはあまりなく、彼女のことは詳しくは知りません。  久保さんはマスクをしていましたが、政子さんはしていませんでした。 「でも、オーナーも知っているでしょう。政府のほうから、不要不急のイベントは控えるようにという要請が出ているんですよ。会場を開けてもいいんですか?」久保さんが政子さんに言います。  ふたりはステージに現れた僕には気づいていないようでした。  客席では、加藤という僕より五歳年上のライブハウスのスタッフが、折りたたんだ状態で壁に立て掛けてあったパイプ椅子を広げて、一列に並べていました。  政子さんは久保さんにさらに強い口調で言います。 「それは知ってる。でも、自粛要請はあくまでも『要請』で、イベントが法で禁止されてるわけじゃない。あくまでも、開くか開かないかは任意のはず。従う義務はないわ」 「でも、人として間違ってますよ。こんなの。日本中がたいへんになるかもしれないというときに、ウイルスをばらまくことになるかもしれないイベントを開くなんて」 「目に見えないし、いるかいないかもわからないウイルスを気にしてたら、催事なんて一切できなくなる。そんなの、人間の生活じゃない」 「でも……」 「このまんま、いつまでもうちの営業を再開できないってことになると、このハコを閉めなきゃいけなくなるのよ。あなたのお給料も出せなくなるわ」  政子さんと久保さんが激しく言い合いをしているのを見ていると、スタッフの加藤さんがステージ上にいる僕に気づいて、観客席とのあいだにある柵を跨いで近寄ってきました。  加藤さんはマスクをあごのほうにずらすと、僕の耳元に顔を寄せてきて、 「三郎さん、来てたんだね。……オーナーと久保ちゃん、さっきからちょっとケンカみたいなことになっちゃってんのよ」と小声で言いました。  僕も着けていたマスクを外して、 「いったい、どうしたんですか?」と訊きました。 「まあ、単純な話ではあるんだけど、久保ちゃんが今日のイベント開催に反対してるんだよ。ウイルスが広まったら、どうするんだって。オーナーはそんなことおかまいなしって感じだから、ふたりの意見が真っ向から衝突してね」  僕は藍とのやりとりを思い出しました。すでに書きましたが、人によって、「この新型ウイルスをどれくらい怖がるべきか」という認識に温度差があるのです。そして、同じ組織のなかで看過し得ないほどの温度差があることが明確になった場合、妥協して両者の中間点を取ることは難しく、まだ感染していない病気をめぐって、互いに消耗し合うことになるのです。 「なんで、久保さんはそんなにウイルスを怖がってるんですか?」 「さあ、それは俺にもわからないけど……。とにかく、政府が言ってるんだから聞かなきゃいけない、みたいな感じで。もう、ずっと平行線だよ」  それじゃ俺続きやるから、加藤さんはそう言ってステージを降りると、パイプ椅子並べを再開しました。 「怪談イベントなんて、不要不急の最たるものじゃないですか! そんなものなくたって、人間は生きていけます。でも命がなくなったら、何にもできなくなるんですよ!」久保さんが言いました。 「人は死なないために生きてるんじゃない。そりゃ、たかが怪談イベントでしょう。たかが怪談イベントすら開けない世界なら、生きてる価値はないわ。病気になって死んだほうがマシよ」政子さんがこれまでで最大の強い口調で言いました。  ちなみに、この日と同じ二月二十九日に、東京有楽町の国際フォーラムで予定されていた某有名女性シンガーソングライターのコンサートが開催されるか中止になるか、というのが注目されていましたが、二日前に正式に主催者により、「予定通り行う」と発表されました。ただし、「来場しない方へチケットの払い戻しには応じる」と一定の配慮をしていました。  このシンガーソングライターがイベントを中止しないことを以て、「ウイルスをばらまく悪党」だと連日ワイドショーやSNSで批判されたのは、言うまでもありません。 「オーナーがそういう考えなら、わたしは着いて行けません。わたし、辞めさせてもらいます!」久保さんが、とうとう覚悟を決めたように言いました。 「それはあなたの自由だけど、(おもて)で今日のチケット確認だけはやってちょうだいね。明日から来なくていいわ」そう淡々と政子さんは返答します。  そして政子さんは肩を怒らせながら振り向いてこちらにステージのほうに歩いてきました。  すぐに僕の姿を認めると、 「あ、三郎くん。もう来てたんだ。ごめんなさいね」と打って変わって笑いながら言いました。  その笑顔があまりにもしぜんだったため、さすが元俳優と思うと同時に、少しばかりの恐怖も感じました。  僕は政子さんの後について行って楽屋に戻りました。
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