聖盃の庭

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ビアガーデン『メイヴの箱庭』は、駅前の古い雑居ビルの屋上にある。  背の高いビジネスホテルと、ぴかぴかした百貨店と、私鉄の高架橋に囲まれたその箱庭は、いつもぼんやりとした薄暗がりの中に沈んで、なんだかそこだけ時間が止まっているみたいだった。辺りの喧騒が、この庭からは遠くに聞こえる。  「酒神降臨」とか「麦酒万歳」とか書かれた色とりどりの提灯に囲まれた庭の中央には、小さな池が綺麗な水をたたえている。水面に提灯の灯が映って揺れているさまは、どことなく平安貴族の宴の席を思わせた。  ここでは、酔い潰れてくだを巻く背広姿のおじさんたちも、勇しく生ビールを鯨飲する娘さんたちも、ホロホロ涙を流して慰め合う貴公子たちも、はっきりとした輪郭を失って、ぼうっと一つに溶け合っている。グラスのぶつかり合う音。けたたましい笑い声。調子っ外れの歌。庭を包み込むさざめきは不協和音ではあったけれど、それは麻呂や姫のやんごとなきさざめきであり、どこか雅に心地よかった。  池の真ん中には島が浮かんでいて、芍薬や菖蒲が咲きこぼれる中に、おままごとのような東屋が建っている。昼間はフラダンス教室の先生をしている長沼さんと言う女性が、その東屋で毎夜ウクレレを弾くアルバイトをしていた。  長沼さんの爪弾くウクレレは、素朴で透明で、どこか悲しい。そのポロンポロンという微かな響きを聞いていると、私は、行ったこともないハワイの海に、何故か帰りたいという気持ちにさせられる。 長沼さんがお休みの日には、パルジ君の友人だという青年たちがやって来て、ケーナとかバグパイプとか、名前のよく分からないアフリカの楽器とかを演奏してくれた。  パルジ君というのは私の部下で、この店の副店長兼バーテンダー兼経理をしている物静かな男だ。本名は何だったかよく覚えていない。  パルジ君の友人たちは、「パルジさんのおかげでこんな素敵な演奏の機会をもらえて、僕ら、それだけで本当にじゅうぶんなんです」と言って、出演料を受け取らず、いつも夜が白み始める頃にほろ酔い加減で帰って行った。パルジ君はいつも、そんな彼らを静かに微笑んで見送った。  メイヴの箱庭は美しい。  人の心に無理なく沿って、幸福な気持ちにさせてくれる綺麗なものだけが、ここには大事に詰め込まれている。箱庭というよりは、宝石箱だ。さもなくば、喜ばしき物だけを心を込めて並べた、おせち料理の重箱だ。  私はそんなふうに思う。  池から一番離れた小さなテーブルを選び、私は輪島塗の盃からミードのホッピー割りをちびちび飲んだ。琥珀色のアルコールの底に、蒔絵で描かれた三日月と星が沈んでいる。  この盃もまた、箱庭に収められた、ささやかに美しき物の一つだ。  メイヴの箱庭に存在する美しき物たちは大抵、パルジ君がどこかの旅先から仕入れて来た物だ。  商店街の福引で温泉旅行を当てるとか、盲腸炎をこじらせた友人からシベリア鉄道の切符を譲られるとか、パルジ君はしょっちゅう旅をしている。そうして先々の見知らぬ土地から、この小さなビアガーデンのために、いろいろと素晴らしいお土産を手に入れて帰って来るのだ。綺麗な細工のカトラリーとか、伝統的な重い鉄瓶とか、地元のお婆さんの手作り味噌とか。まるで、冒険から帰還した騎士が、お城の塔のてっぺんの庭に、宝物を大切に大切に持ち帰って来るみたいに。  本社の酒造メーカーの会長がビアガーデンを始めようと酔狂で言い始めた時、マネージャーに任じられた私が、改装工事中だったこの場所で初めて面接したのがパルジ君だった。  ちょうどこの席に、私たちは向かい合って腰掛けていた。  せっかくだから、面接をしながら、ビアガーデンで出す予定のお酒を試飲しようということになり、程なく我々は二人して良い具合に酔っ払ってしまったので、その時、面接としてしかるべきどんな会話を彼としたのか、正直よく覚えていない。  ただ、目の前に座ったリクルートスーツ姿のパルジ君は、ミードのポッピー割りをグビグビ飲む私を見て、「ミドリさんは変な物を美味しそうに飲むなあ。そんなに美味しそうにそんなよく分からないお酒を飲む女性を、僕は初めて見た」と言った。  私が、「こういうのを輪島塗の盃で飲むのが、私の夢なの」と目を細め、爪先に引っ掛けたパンプスをプラプラさせていると、パルジ君は私を見て、「そうなんだ」と、静かに優しく笑った。  それから何年か経った夏の日に、彼は後輩にもらったという自転車で能登まで出かけて行き、この輪島塗の盃を手に入れて帰って来た。ついでに陶器市に寄って九谷焼のタンブラーを仕入れ、それから兼六園を見て来たのだそうだ。兼六園のあの石灯籠のような物を、このメイヴの庭の池にも置けないものかと、彼は言った。石灯籠は私の趣味ではないけれど、かわりにこの池で錦鯉を飼ったらどうかということについて、私たちはしばらくの間真剣に話し合ったものだ。 ***  今朝、珍しくパルジ君と喧嘩をした。  本社の前山さんが昨夜遅くここへやって来て、私に営業部に戻らないかという話を持ちかけて来た事が、パルジ君には気に入らないようだった。  前山営業部長は「本社の錬金術師」と呼ばれる人で、様々な武勇伝を持っていることで有名だ。  「様々な武勇伝」が具体的にどんな武勇伝かというと、例えば、取引先の社長が実は背中に昇り竜の彫り物がある人だったのだけれど、説教して泣かせてしまい、今は「兄貴」と呼ばれているだとか、一度話が決裂した女性担当者から毎晩電話がかかって来て最終的に結婚を迫られたとか、とある酒蔵の御隠居に「あんたを知っている。あんたの前世は、ヤマタノオロチ退治に出かけるスサノオノミコトにヤシオリの酒を授けた一族の長だ」と言われて拝まれたとか、そんなものだ。  いずれにせよ真偽の程を確かめようのない話だったけれど、ともかく前山さんが有能なナイスミドルであることは確かで、それ故に、彼は本社の女性陣に大変人気があった。それから余談だけれども、前山部長が毎年忘年会で披露するマジックショーは、宴会芸とは思えぬプロ並みのクオリティーだという話だ。私はまだお目にかかった事がないけれど。  前山部長は高いワインをグラスの底でゆらゆらさせながら、仕事中の私を捕まえて熱心に語った。  「ドリちゃんのような有能で美しい女性をね、こんな居酒屋みたいな所に左遷させっぱなしというのがね、私はずっと心苦しかったんだよ。これじゃあまるで、島流しじゃないか。あんな事はあったけれどもさ、でも、やっぱり営業部にはドリちゃんが必要なんだよ。私にはそれが分かっていたから、この機会をずっと待っていたんだ」  前山さんはそんなふうに話し始めると、営業部での私がどんなに有能だったかをダンディーな声で延々と語った。黙って聞いている私は気恥ずかしかったけれど、正直、嫌な気はしなかた。というか、嬉しかった。なんだか、胸がドキドキする。私は一体何にドキドキしているのか。突き詰めると厄介な結論にたどり着きそうだったので、私はとにかく、「よく考えてみて、早いうちにお答えします」と言って、レジ閉めの作業に戻った。  早番で出勤して来たパルジ君と一緒に九谷焼のタンブラーを磨きながら、この件に関して、私は一晩考えた事を彼に話した。  このビアガーデンも好きだけれど、やっぱり私にはキャリアが向いているのかもしれない。メイヴを任せられるアルバイトさんもだいぶ育って来たし、ここにはパルジ君もいるし、そもそも私は接客向きの人間じゃない。本社に戻って、組織の中で人を引っ張って行く方が、みんなにとって良い事なのかも知れない。チャンスがあるなら、私はやっぱり大きなものの中の歯車として動くべきなのではないか…云々。  パルジ君は美しい手付きで緑色のタンブラーを磨いていたけれど、私の話が途切れると、その手を止めて短く言った。 「ドリさんにはそんなのは似合わないよ」  普段温和なパルジ君が珍しくはっきりと反対を表明したので、私は意外な気がして彼の横顔を見た。 「私、ずいぶん買われているのよ?」 「あの人はドリさんを利用しようとしているんだ」 「利用って、どんなふうに」  私がちょっと怒ったように言うと、パルジ君は何か言いかけたけれど、結局そのままうつむいてしまった。言いたい事を飲み込もうとしているのか、言うべき言葉を探しているのか。何となくざわつく手触りの沈黙が、私たちの間を流れて行く。  そうして、もうそれきりその話はやめてしまうのかと思うくらい黙った後、パルジ君は口を開くと、すごく静かな声で、ゆっくりと言った。 「ドリさんがこの庭を捨てて行くなら、僕は本当につまらない。ドリさんは、本当にそれでいいの? ドリさんの、この、夢みたいな庭から出て、そんな壁ばっかりに囲まれたみたいな所に行くのが、本当にいいの?」  私はパルジ君の横顔を見たまま、しばらく言葉を失った。 「ドリさんはね、メトシェラだよ」 「何、メトシェラって」 「すっごい長生きな松の木」 「松ぅ?」 藪から棒に何を言うのかと思い、私は思わず声を裏返した。 「そうじゃなければ、ベニクラゲだよ」 松の次はクラゲか! 「なによ!バカにしてんの⁈」 大きな声を出して顔を赤くする私を、パルジ君は少し哀れそうに見た。 「ドリさんに本社のような所は似合わない。あなたはね、ずっとずっと昔から静かで綺麗で変わらない場所にいて、そこからじっと、僕らが生きたり死んだりめまぐるしくするのを愛でているんだ。だから僕は旅に出て、あなたの所へ宝物を持って帰って来ようと思ったのに」 それが喧嘩の顛末だ。 ***  天空の箱庭に静かな風が吹いて来て、盃の底の三日月と星を揺らしている。  完璧な弧を描く月と、そこに寄り添う星。明けの明星。夜と朝とをつなぐ星。  私の知らない、箱庭の外の世界で、あの人は何を思い、この盃を選んだのだろう。  爪先に引っ掛けたパンプスをプラプラさせながら、私は遥か上空の、暗く柔らかい空を見上げた。  今日、遅いお昼休憩の時間にパルジ君の作った多国籍(或いは無国籍)料理の賄いを二人で食べていると、控室の黒電話が鳴って、パルジ君は慌ただしくお店を出て行った。  何でも、小笠原諸島の何とかという島に移住して民宿をやっている親戚のおじさんがぎっくり腰になり、急遽応援を要請されたのだとか言う話だった。  今頃パルジ君は、夜のフェリーに揺られながら、太平洋のどこかを漂っているに違いない。  そこはとても星が美しい島で、ものすごく辛い唐辛子が名産品なのだそうだ。唐辛子はいいから、早く本人が帰って来るといい。  私はそんなふうに、初めて思った。  何千年も同じ場所に根を張る古い木は、こんなふうに旅人の帰りを待つのだろうか。  そんな事を考えていたら、私はふと何かを思い出したような気がしたけれど、それは言葉にならないまま、やがて、私の中を通過して行って消えた。ただ何か、懐かしくて優しくて、泣きたいような気持ちを残して。  箱庭の池の真ん中で、長沼さんの爪弾くウクレレの音がする。  もうじき夜が終わるのだろう。  あの優しく切ないメロディーは、『蛍の光』だ。  ハワイの素朴な音色は今、遠い昔に再会を約束した旧友の歌を、ポロンポロンと奏でていた。                        (了)
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