第88話

1/1
前へ
/107ページ
次へ

第88話

 まばらな人の波の中、みちるは最寄り駅の改札を抜けて行く。すっかり遅くなってしまって、言い訳もなにも浮かばない。  気がつくとだいぶ酔いが回っていた。ふらふらと足元がおぼつかない。元々お酒が強くないのに、調子に乗って、カクテルを飲んだからだ。  回る視界にさらに酔いが回りそうになって、がちゃがちゃと部屋のノブを回す。鍵を出さなくてはと思っていると、伊織が出てきてくれた。 「ただいま」  力が抜けてしまい、玄関に座り込んで靴を脱ぐ。その場でうずくまりそうになっていると、後ろから両脇に手が入ってきた。 「おかえり、酔っぱらいのみちるさん」 「ごめっ……」  ぐっとそのまま持ち上げられると、抱え込まれてソファに座らされた。見上げれば、憮然とした表情をした伊織が覗いてくる。 「介抱してあげよっか?」 「いい、自分で――」  立ち上がろうとして視界が揺れ、みちるは上半身をソファに沈める。伊織は両手を腰に当てて、仕方がないなと言うようにクッションをあてがって楽な体勢にしてくれる。 「はい、お水」  伊織はコップに入れた水をみちるに差し出す。それを受け取ろうとしたのが目が回ってしまう。伊織のため息が聞こえてきた。 「みちるさん、合コンじゃなかったっけ」 「そう言ったはず」 「お酒飲むなんて聞いてないけど?」  伊織がずい、と顔を寄せてくる。そう言う彼からも、ほんのりとお酒の香りがする。そのままみちるの膝の上に乗っかってきた。 「伊織くんもお酒……」 「俺は飲み会って言ったよ、ちゃんと」  伊織はコップの水に指を入れると、それをちょんちょんとみちるの唇につける。まるで、小さな動物に水を飲ませるかのような仕草だ。 「お酒は飲んでも飲まれるなって、教わらなかったのみちるさん?」 「ちょっと、仕事関係の人と会って……それで付き合いで」 「で、飲まされちゃったの?」 「自分で飲んだの。甘くて美味しかったから」 「甘いお酒ほど度数が強いって知ってた?」  みちるは軽く首を縦に振る。 「ちゃんと帰って来たから許してあげるけど」  そう言って、伊織はみちるの首筋から耳元に顔をうずめるようにしてくる。くすぐったくて身をよじると、させないようにぎゅっと抱きしめられて、くんくんしている。 「ちょっと、伊織くん」 「……男の匂いつけて帰ってくるとは思ってなかったな……」  首筋と耳元に、博嗣が触れたのを思い出す。  それほど強い香水ではなかったと思ったのだが、手首についていたのが移ったのか、たんに伊織の勘がいいだけなのかわからない。 「食べられてないよね、みちるさん?」 「まさか……」 「楽しんできちゃダメって言ったはずだけど」 「つい、仕事の話していたら」 「お仕置きしていい?」  なんの、と問う前に、伊織がコップの水を口に含んで、みちるにキスした。舌先で唇がこじ開けられ、水が流れ込んでくる。  伊織は無表情に近い顔で、みちるの濡れた唇を見つめていた。 「介抱してあげる。お仕置きみたいなやつ」 「待っ」  動けないのをいいことに、伊織はみちるを強く抱きしめながら口移しで水を飲ませた。  自分でできると言っているのに、伊織はそれをさせてくれなかった。
/107ページ

最初のコメントを投稿しよう!

137人が本棚に入れています
本棚に追加