第92話

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第92話

 初めましてと言われたのだから、みちるも初めましての顔をする。  そうしてミーティングルームで改めて顔を合わせた博嗣から名刺をもらって、しっかりと名前と役職を頭に叩き込んだ。  仕事の時には、仕事の顔をする。だから、先日一緒にお酒を飲んだことも、帰り際の不意打ちのキスも、抱きたいなどとストレートに言われたことも、すべて頭の片隅へ追いやった。 「インターネットで、御社のことを知りまして。とても魅力的なディスプレイをしているので、今回、こうしてお声をかけさせていただいた次第でございます」  みちるの知っている博嗣は、大胆で不適で、そしてずけずけとした物言いをする男性だ。なので、目の前のフロアマネージャーという役職の男性は、初めて対峙したとも言える。  対するみちるも仕事の顔をしているから、お互いに知らない顔をしていた。  気に入ったデザインの種類や、どういった要望とお客さんのニーズがあるのかなど、少し混み入った話が始まる。  秋に向けてのディスプレイをということで、急ピッチの仕事になることは予想できた。  デパートのディスプレイは、次の季節をすぐさま先取りする。春でももう初夏のディスプレイは終わっているので、真夏の盛りに飾る秋物からのディスプレイ案ということだった。  もう少し早めに声をかけてほしかったと思ったのだが、承諾したのだから限られた時間でとにかく仕事に打ち込むしかない。  メインとなる大きなディスプレイを任されることとなって、心が躍ると同時にプレッシャーが肩に押し寄せてきていた。 「大丈夫そうですか?」  博嗣は優しい口調で気遣っている様子だが、その瞳は「できるよな?」と言っているのがひしひしと伝わってくる。みちるはもちろん、とうなずいた。 「このようなお仕事を頂けて光栄です。精一杯尽力いたします」  博嗣のよそいきの笑顔は爽やかで、フロアマネージャーにふさわしい。みちるも、負けていられないと闘志が燃え上がる。  仕事は、やっぱりみちるにとって生きがいなのだ。  打ち合わせを終えて社長とともに帰路へと着くと、すぐさま携帯電話が鳴った。知らない番号だったが、心当たりがある。 「――はい、今村です」 『もしもし、みちる?』  博嗣だ。ずいぶんと変わり身の早い口調の変化に、みちるはため息を吐いた。社長に先に戻るように伝えて、みちるはその場に立ち止まった。 「先ほどはどうも」 『そう警戒しなくていいよ。仕事中は君を襲ったりしない』  みちるは思わずどきっとして目を見開いた。 「当り前です! そういう冗談は心臓に悪いので、やめてください」 『つれないなあ。ところで、先ほどの件で言い忘れたことがあるんだけど、今夜は空いている?』  みちるはちらりと時計を見る。帰社してから案件をまとめて、資料をまたあさらなくてはならない。順調に終わってくれれば、多少の時間は取れる。 「少しなら」 『じゃあ、駅前のカフェで』 「わかりました」  仕事がうまくいくようにと願わずにはいられない。  いいように博嗣のペースに呑まれているが、ここはきっちりと仕事をこなして、自分のペースに巻き込む勢いを持たなければ、と気合いを入れ直した。
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