第93話

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第93話

 順調に仕事を終えて、伊織には万が一に備えて帰宅が遅れるかもしれない旨を伝える。気をつけてねというメッセージとともに、可愛らしいスタンプまで送られてきて癒された。  仕事の時、伊織はみちるのことを応援してくれる。忙しいのをわかっていて、ずいぶんと利口に待てができるのだ。 「甘えてばっかりだな、私は……」  待ち合わせの駅前のカフェに先に入って、コーヒーを飲みながらつぶやいてしまったところで、横からひょいと博嗣が顔を出した。 「誰に甘えているの?」 「わ、びっくりした」  大きな声を出しかけて、みちるは慌てて咳払いでごまかす。悪びれもせずに博嗣はみちるの鞄を持つと、奥のソファ席を指さす。  窓側のカウンターにいたみちるは、これは長丁場になるかも、と気を引き締めた。 「で、さっそくだけど、昼間に渡し忘れたもの。過去のディスプレイの詳しい資料。それから、うちの顧客の年齢やニーズをフロアごとにまとめたもの」  博嗣が取り出した資料に、みちるは顔を輝かせた。過去のディスプレイ案はとても参考になるもので、ぺらぺらとめくるだけで目がキラキラしてしまう。 「君は、本当に仕事が好きなんだな」  博嗣がふと顎を手に乗せながらつぶやいた。資料から目を離して向き合おうとしたところで、あまりにも色っぽく見つめられていて、言葉が出てこなくなってしまった。 「好きです……大橋さんも好きでしょう、仕事?」 「ああ、好きだよ。じゃなきゃ、こんなきつい仕事やってられない」  その若さでフロアマネージャーになったのだから、相当な努力家でやり手だとしか思えなかった。 「今回は、お仕事を頂けて嬉しかったです。改めてありがとうございます」 「いいんだよ。君の会社の仕事に、本当に好感が持てたんだ。それに、昼も話したけど、もともと契約していた所がキャンセルになってしまって。急きょ応じてくれたんだから、こっちだって助かった」  それにみちるはうなずいた。 「いい仕事を期待しているよ」 「善処します」 「じゃあ、仕事の話はここまで。で、誰に甘えているんだって?」  急に話を挿げ替えられてしまい、仕事スイッチがオフにならずにしどろもどろになった。 「今はプライベートな時間だよ、みちる」 「はあ……まあ、同居している、友達の弟に……家事とか全部やってもらっちゃってて」 「そういえば、そんなことを言っていたな。仕事が忙しいんだから、甘えられるときは、甘えておいたほうがいいんじゃないか?」 「それはそうだけど……あまりにも、私がなにもしていないから」  結局、家賃を折半するという伊織の申し出をみちるは断っている。あまりにも伊織の家事の分量が偏っているからだ。 「俺が甘やかしてあげようか?」  急にいたずらっぽく言われて、みちるはむっと口を尖らせた。 「大丈夫です」 「あはは、やっぱりつれないな」  博嗣がすっと取り出したのは、夜景の見えるレストランの招待チケットだった。 「一緒にどう?」 「え、でも……」 「もらい物なんだよ。期限があるから」 「大橋さんと一緒に行きたい女性は、たくさんいると思いますけど」 「君と一緒に行きたいから誘っているんだけど」  テレビでも紹介される、最近話題のレストランだ。美味しいご飯は食べたい。けれど、伊織を置き去りにしてしまうのには気が引けた。 「これあげるよ。処分するなり、人にあげるなりして」  博嗣はチケットを差し出して、すっと立ち上がる。みちるは大慌てで博嗣の裾を掴んでしまっていた。 「……い、行きます」 「うん。じゃあ、日にち合わせよう」  忘れ物がないかを見て立ち上がると、出て行こうとしていた博嗣が目の前に立ちふさがるようにして立っていた。 「よかった。今度こそ誘いを断られなくて」 「断れないようにしたの、大橋さんじゃないですか」 「バレた?」  笑いながら博嗣の手が伸びてきてみちるの頬に触れる。そのまま指で唇をなぞられた。とっさに身を引こうとすると、手がパッと離れていく。 (――これは、手強いかも)  伊織とはまた別の手強さに、みちるは大きくため息をつかざるを得なかった。
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