第94話

1/1
前へ
/107ページ
次へ

第94話

 夜景の見えるレストランは、本当に素晴らしいお料理ばかりでみちるの心を弾ませた。それは、博嗣と仕事で打ち合わせをして、五日後のことだ。  一杯だけワインを飲んで、フルコースに舌鼓を打ち、博嗣との会話には花が咲いた。  今請け負っているディスプレイの案件の話はしなかったのだが、仕事に対する心意気や、熱意、そういった話をするのはとても有意義に思えた。 「お互い、仕事が趣味みたいなもんだな」 「そうみたいですね。仕事とプライベートの充実が、もはやイコールで結ばれてしまっているみたい」 「そうだな。趣味のために仕事を頑張れれば良かったのに」  笑顔になると、博嗣はとても優しい目元になる。みちるはモテるだろうなと思いながら、スプーンを動かした。 「ちなみに、彼氏とはどうなの?」  急に話を振られて、みちるは危うくスプーンに乗っていたジェラートを落っことしかけた。  その話題は、今はみちるの中でタブーに近い。忙しいのと時差のせいで、直登とは連絡が取りにくい状況だった。 「どう、と言いましても。どうにも……」 「他の男とこうやってデートしていて平気?」 「嫌な言いかたをすれば、バレなきゃ大丈夫ということです」  博嗣がずっと前に言っていたことをそのまま返すと、彼はくすくすと笑った。 「まあ、俺と出かけるくらいだから、うまくいってるわけないか」 「十年経つんですよ、つきあって。そうなるともう、なんというかお互いにお互いを意識しなくなるというか」 「空気みたいになった次のステップは結婚ってわけか。踏み出さないのは、なあなあになっているから……図星って顔してるよ」  みちるは博嗣を恨めしく思ってちょっとだけにらんだ。気持ちを晴らそうと、デザートを心の底から味わうようにして食べた。 「浮気されたので。結婚するの迷ってて」  強気に言ってみたものの、迷っているもなにも、結婚を考えていると言われただけで『結婚しよう』とは言われていない。迷うもなにもないのだ。 「へえ。浮気ね。許せない?」 「まあ、それは……」 「男は浮気するものだって、教わらなかった?」 「義務教育では教えてくれなかったですよ。先生を恨んだほうがいいですね」  博嗣は甘いものが苦手のようで、みちるとプレートを交換した。 「魔がさすことってあるんだよ。それは男性限定じゃなくて、誰にだって平等にある」  二皿目のデザートを食べようとしていたみちるは、ナイフを心臓に突き付けられたような気持ちになった。 「……みちるも、そういうことってない?」  妙に勘繰るようないたずらっぽさを持つ言いかたをされて、みちるは慌てて視線をデザートへ落とした。 「ありますよね。誰にだってきっと」  言われなくとも、今現在のみちるがそうだ。  直登に内緒で伊織と一緒に甘い暮らしを味わい、そして博嗣とデートをしている。 「そ。だからお互い許し合わなきゃとか、そういうことを言いたいわけじゃないよ。でも、タイミングってあるんだよね、きっと」  みちるは聞き耳半分でデザートを平らげる。帰りに博嗣は駅まで送ってくれて手を振り合って別れた。  キスをされなかったことにホッとしつつも、同時になぜか切なくなってしまう。みちるはコートの前を羽織ると帰路へと着いた。
/107ページ

最初のコメントを投稿しよう!

137人が本棚に入れています
本棚に追加